脳内宇宙の開示

日頃考えていることを書きます。

不器用貧乏の情熱

 

気づいたら午前2時を超えている。

恐ろしい。

なんかぼーっとしてしまっていたな。

決して嫌な心地故の事ではないのだがどうも力が入らない。

ずっと布団の上で目を開けていたい衝動と戦っているのです。

今までそうしていたわけなのですが。

 

 

今日の晩御飯を食べ終わって自室にこもった頃からなんとなく夢を掴み損ねた気分に襲われているような気がしました、

いや、掴み損ねたという表現は正しくないかもしれない。

何故なら今までの役18年間、握れたことなどないのだから。

それでものうのうと生きて来れてしまっているのですから。

正しくは虚を掴んだのです。

夢だと思えたかもしれないものが手を握った瞬間ただ明日を生きる気力にすらならない程度の小さな小さな虚にすり替わってしまったとそれだけの話なのです。

それももう人生で何度目かわからない。

これから先も続けていくのか終わりが来るのか、また、終わりが来るとてそれは達成を以て終わりとするのか諦めを以て終わりとするのか。

まだ18年も生きていない私には経験が浅いためにわからない話であります。

 

また、夢を掴めない如く、生まれてから未だに低体温のままなのであります。

平熱は36度に達さない。

熱が急激に上がったとしてもせいぜい3日ほどで治ってしまうわけですから悲しいものであります。

もっと狂ったような熱が欲しい。

 

そもそも、血を自らの身体に流したことなど一度もなかった。

ただ産声をあげたとき、いや、その前から流れていたというだけの話。

自ら流す方法はないのか。

走るしかないか。

ただ走るのは疲れる。

そこで体力を消耗したくない。

そう思っているうちに心臓は自らから離別していく。

心臓のない私。

たったそれだけの心臓。

どちらも著しく必要なものが足りていない。

そうわかっていながら合わさることもない。

 

あるいは、血を流すという表現を広い目で見るのであれば、身体を切りつけて血を流してしまったことはあった。

小学三年生の夏休み、段ボールをカッターで切っていた時の一瞬の不手際。

不器用な少年の災難である。

今も左手首あたりに痕は残っている。

ただ、あの頃の私を少年と言えるほど今の私は大人ではない。

今日もまた理性のカッターで自分を工作していたところに不手際を起こしてしまいリストカットをしたばかりである。

もちろん身体には一切傷をつけていないが。

 

そもそもそのへんに折り合いがついていないから今日も何のことかわからないような文章を書いている。

日記にしてしまえばどれだけ楽だろうか。

それをしないのは一種の意地であり羞恥心であるのである。

読みづらいなどと言われることも多いが、読みづらくてなんぼである。

分かりやすく何かを伝えようとしていないから。

毎日これだけ文章を書きながら実際自分の中身をほとんど開示していないのではないかとすら思う。

あくまで書き手のただの妄想でありますがね。

 

 

今日は割と分かりやすくかけた気分でいる。

というか分かりやすい文章をかけた実感があるときは総じて自分の心にある程度折り合いがついているときである。

開示する勇気はないが伝える気はあるぞ。

こんな感じでどうっすかね。

以上。