脳内宇宙の開示

日頃考えていることを書きます。

一周忌

お久しぶりです。

この一周忌というタイトル、誰の一周忌なのかと気になる人もいるでしょうか。

私です。

いわゆるアイデンティティの崩壊が起こったと言えば伝わるでしょう。

それから早いもので1年が経ったというわけです。

 

では去年の10月2日に何があったかという話から入りましょう。

去年の今日というのは私が久々に、いや、もしかしたら初めて父親に怒られた日なんですね。

初めて父親に怒られてアイデンティティが崩壊などとはなんとも可愛い話じゃないかと思うやもしれませんが大事なのは中身であります。

私の父親というのは将来の夢を叶えた人間でありまして、なりたい仕事に就くための大学に入り今もなおやりたい仕事をしているわけで、中学の時学校の課題で親に仕事についての話の聞いてくるという事をしたときもしたい仕事に就いてくれと言われたのを今でも覚えています。

ただ、その父親の願いに対し、私にはやりたい事が無かったわけです。

それは将来の話だけではなく週末の空いている時間に何をしたいかという目先の話に対しても何も答えられませんでした。

それに対し父親は高校で何をしているのかと怒ったわけです。

決して勉強を熱心にやっていたわけでもありませんでしたしね。

「お前は将来自殺する気がする」と言われて心を見透かされた気分になったのを覚えています。

自殺願望というものは全く無かったのですが、とりあえずぼんやりと生きて生きれなくなったら死ぬくらいの覚悟でいた気がしたのです。

自殺願望がないように生存願望も全く無かったことに気づいた瞬間かと思います。

 

明くる10月3日、去年はこの日が体育祭でした。

そしてやりたいことに対して酷く鈍感だった私はなんとなく学校から家まで歩いて帰ってみたいと思い、それを実行に移すことにしました。

6時間かけての下校。

普段であれば絶対にしない事ではありますが、その日は欲望に忠実であろうと思ったのです。

久しぶりにしたいことをしたような気分になって、さらに自転車で遠くに行くという次にやりたいことまでできたので、気持ちが晴れた気分でいました。

自分はちゃんとやりたいことを見失っていないと。

きっとやりたい事を見つけていけると。

 

そして5度ほど自転車で登下校をしたうえで11月の末に小田原まで自転車で行きました。

やりたいことに対し、ストレートにそれをやる事の楽しさを味わい、父親が自分に自分にかけた言葉が自分の中で大きな意味を成した気がしました。

しかし、やりたい事を見つめることは同時にやりたくないこととの線引きがされることでもありました。

それまで感じなかった学校への億劫さが膨らんでいきました。

1年前までの学校というのは楽しくはないが行かなくてはいけないのでなんの感情も無しに行くところだったように思えます。

普通に学校に通うならそれで問題なかったように思えます。

平日の朝から学校があり、夕方には終わり、土日は休み。

この流れにそのまま流され、それ以上の期待もそれ以上の負担も無かったのです。

ところが、したいことをしようと思ったらこの流れは邪魔になってきたのです。

後ろに行くにも横に行くにもこの流れが邪魔で、流れに従うことは自分にとってはやりたいことに出来なかった。

そして、自転車での旅行を終え、12月の部活のライブを終えた途端、したいことが一端なくなりました。

あの時、部活の方がとても忙しくなり、1週間毎日11時ごろに家につきそれから運営の方の仕事みたいな生活だったのもあり、ライブが終わった後力が抜け、音楽に対しても何もなくなっていました。

ただ、やりたいことはないのに学校への憂鬱さというのはずっと引きずっていたのです。

何も考えずに行けていた学校が行きたくないに変わった決定的な瞬間がここにありました。

 

それから父親に日記を勧められたのと友人が毎日文章を書き始めたのに乗じてブログを初め、毎日書くようになりました。

このころから学校に行かない日が増えます。

かといって学校を休むとさらに鬱屈として、その心地が嫌で睡眠を過剰に取り、起きたらそれをぶつけるようにブログを書きました。

 

4月18日にずっと誰かと行こうと思っていた寄席に一人で行ったときから一人でいることが好きになって、気が付けば散歩に出たり公園に行ったりするようになりました。

母親はそれを心配しましたが、父親はそれを肯定してくれて、これで良いんだと思うようになってから徐々に気持ちは回復しています。

現在進行形で回復しているような気がします。

一人でいるせいで病んでるとか何とか言われますが本人は元気なつもりです。

 

 

 

仰々しく書いた割にそんなに大した事起こってないと思う人がいるかもしれません。

私もそう思います。

こうやって文章にしてみると、身を置いている環境には何もないのです。

いじめられてるわけでもない。

家に居場所がないわけでもない。

病気にかかったわけでもない。

むしろ、ちゃんと自分の席のある学校があって、ちゃんと心配してくれる親がいて、健康な体を持っている。こんな幸せな環境はない。

しかし心は幸せになれないのである。

となると原因は私の方にあるとしか言えない。

私の心が幸せを拒んでいるのであると。

これは怒られても仕方がないほどの贅沢な話であるが、例えば学校でいじめられているのであれば、その学校という環境を離れれば自分はやっていけるという根拠のない自信を持つことが出来るかもしれない。

しかし、こんな幸せな環境にいて幸せになれないとしたら、私は何処で幸せになれるのかがわからない。

環境に問題がないのなら心を離さなくてはいけない。

そんなのなかなか出来ないじゃないか。

それこそ死ぬしかない。

進路を決められない理由はここにあった。

何処に行っても不幸せな気がした。

どうすればいいかわからないというよりどうしても無駄な気がした。

 

 

 

最近、本当にここ2週間くらいの最近の話だが、新しいコミュニティーを見つけた。

いままでとは全く違う環境に入り込み、今まで話したことのない人と話し、今までしてこなかった事をしている。

あくまで主観ではあるが、上手く行っている気がする。

現に楽しい。

学校も週に一回以上必ずやすんでいた1学期と比べて欠席の数は大きく減った。

何処に行っても幸せになれないと思っていた根拠のない自信の無さが解消されている気もする。

心が健康になって来た今考えると、2月ごろ自分はうつ病なんじゃないかと思いネットの簡易診断を行い良い結果が出ても悪い結果が出ても落ち込み、精神科に行くか本気で悩んでいた頃の自分は本当に何か抱えていたんじゃないかと思う。

環境とか心とか関係なしに幸福度みたいなものが足りてなかったのだと思う。

もし新しく属した環境で幸福度を高めることが出来るなら、私は生き返ることが出来るかもしれない。

色々ありながら1年たったがもうすぐまた生まれなおる事が出来るかもしれない。

未だに不安と新たに期待を背負いつつ、明日1年ぶりに歩いて帰ろうか真剣に悩んでいる。