言語化の副作用
何も喋らない1日、とても欲しいです。
それくらい簡単に出来そう、と思いながらも振り返ると一言も喋らなかった日って今まで一度もなくありませんか。
実際難しい。
平日は学校があるため嫌でも人とのコミュニケーションを取らねばならないし、休日だって朝起きたら親とあいさつを交わすし外に出て買い物などすればどうしても声を出さないといけなくなる。
もちろん1日中寝ていれば一言もしゃべらずに1日を終えることができるが、ずっと寝ていることはなかなかできない。
それは物理的にも精神的にも社会的にも言えることである。
よってなかなか難しいのだ。
たまたま家族が全員泊まりでどこかに行っており外に出る用事がなく来客や電話が来ない日を狙うしかない。なかなかないな。
え?全部無視すればいいじゃないかって???
それは社会性に反するというものですよ。
というかそこまでして喋らないほど価値のある行動じゃない気がしますしね。
喋るのってとても疲れませんか。
自分の中にある物を頭の表面に持ってきてそれを言語化して話さないといけないのです。
考えてみれば結構な作業ですよね。
しかもそれに気遣いであったり遠慮であったり愛想笑いであったりのなどなどを付け加えなくてはならない。
そりゃエネルギーも使うわ。
一番エネルギーを使う工程は「自分の考えを頭の表面に持ってくる」ところだと思うのです。
しかも皮肉なことにこれは話を聞くだけでも勝手に脳内で行われてしまう事です。
「〇〇ちゃんチョベリバじゃん?」と話されたらどうしても〇〇ちゃんのチョベリバなところを探してしまうわけです。
マイナススタートで話し出したので例が悪いと思われるかもしれないが、将来の話をし出せば将来が不安になるような考えをしてしまったり、過去を振り返っては後悔の種を見つけてしまったりと割となんでも負担になり得る物ですよ。
少なくとも私はね。
じゃあ逆に喋っても負担にならないようにするにはどうすればいいか。
何も考えなければいいのでしょうな。
何も頭の表面に持ってこず、思ってもみないことを適当に言葉として放ち続ければ楽な気がします。
ただ、それってどうなの、と。
そう思ってしまうのは私の生き方が不器用だからか。
それとも世界が歪に出来ているのか。
ここまで書いてきてあれですが、無理っすよ、喋らないのもそれに付随する負担を切り離すのも。
会話に必要なエネルギーを持った状態で生きるしかないと思うのです。
後は負担を軽減する考え方を手にするしかない。
まだガキのうちにいろんな人と話す経験をしてその術は手にしておきたいと思います。
そもそも毎日ブログを書いている身で何を言っているのでしょうな。
これほど自分の考えに正面から向き合わなくてはならないこともなかなかないというのに。
いやいや、私にとってはこれより話す方がエネルギーが必要な気がしたとそういう話でありますがね。
コミュニケーション障害とはこういったもんのことをいうのですかね。
今日はLINEとかも最小限に抑えてしまいましたが、明日からは普通に話せるようにしたいです。
そこにエネルギーを使うのも馬鹿みてーですけどねー