縋る思いで藁を除ける
藁にも縋る思いという言葉がある。
割と日常的に用いられる表現であると思うのだが、今日ふと藁にも縋る思いをしている人間は決して藁につかまりたいわけではない事を思い出した。
思い出したという言い方が正しいかはわからない。
今まで単に考えたことがなかったとそれだけの話である気がする。
しかし唐突にそんなことを今日考えてしまったわけである。
藁にも縋る思いという言葉のベースにあるのは、池などで溺れたときに周りのものを手あたり次第掴む人の様子である。
だから藁を掴んでも無駄と冷静ならばわかっていながらも掴もうとしてしまうというそういう話である。
しかし、もしこの溺れた人間の脳にわずか一瞬冷静な思考が戻り、その手を伸ばす先にある影が藁だと分かったならそれを掴むだろうか。
わずか一瞬の隙に藁だと認知し、その先またパニックになったとて、きっと一度認知した藁を掴むような真似はしないだろう。
別の影を探しそれに縋ろうとするはずなのである。
それがまた別の藁である可能性も充分にあるのだが。
藁にも縋る思いで藁を掴んだ時、それはもう苦しいはずだ。
何か掴める物を必死で探し、やっと掴んだと思ったら頼れないというのは精神的苦痛も伴うし、そんなことをしている間にも自らは水の中に引きずりこまれていくのである。
そうなるためにはまず溺れる前に藁の影を認識しておくしかない。
もしくは、縋れば助かる物の位置を把握しておくか。
そうすればいち早く助かることができるはずだ。
そもそも溺れる前にそんな準備ができる人間は溺れないよなどという野暮なツッコミはやめていただこう。
準備の時間がいくらあれど、溺れるのは一瞬なのである。
それは不可抗力な時もある。
溺れたときの事を考えるのと溺れる事を避けるのは一切合切訳が違うのである。
どちらにもそれぞれ適性があるのだ。
もしくは、溺れても自分でどうにか体勢を直す適性も別に存在するが、その辺は実際溺れながら身に着けていくしかないというのが私の見解である。
であるならまず溺れる前提で話を進めて置いた方が早い。
そして藁にも縋る思いでありながら藁には縋らないようにすると、そういう事が大事なのである。
藁になど縋りたくないからな。
(笑)
以上。