脳内宇宙の開示

日頃考えていることを書きます。

息切れ道連れこの世の果て

 

明日、大事なものが終わります。

まあ努力をひけらかすのはだっせーので詳しい話はしないがとにかく自分の中で頑張って来たことが明日で一つの区切りを迎える。

明日頑張れば久しぶりの完全燃焼になると思う。

思えば中学の部活も受験との両立ができず中途半端に手を抜いてしまったし、こう何かだけを見てある程度長期間一生懸命になったのは初めてかもしれないです。

別に完全に終わるわけではないが、自分の中で大きな区切りになるという予感はある。

今まで走ってきて最後一番つらいところを迎えながらゴールを心待ちにしているのかそれとも寂しく思っているのか…

 

昨日の内容にも近いような気がするが、今の時期、走り終わって息切れしていようとも歩みを止めることは許されない。

部活の筋トレをメニュー通り終えたら顧問からもう10本と言われるあの感じ。

決して同じ道ではないが、それでも走り続けなくてはならない。

いや、今の時期だけではない気がする。

この先ずっと何かを走り終えて激しく呼吸をしながらもまた次の道を走り出さないといけないという状況が連鎖し、私の人生を形作っている気がする。

歩みを止めてはいけない事はさることながら、これから先ずっとそれが続くと考えるのもつらいものだ。

その努力をつづけた先に待つのは果たして何なのかもよく見えてこないし。

 

あるいはこの類の悩みは思春期特有だなどと大人に言われる。

ではこれにいつか折り合いがつき、走り終わってまた歩くことに嫌気がささないときが来るのかというとそれもそれでまた盲目的で、社会の波に呑まれただけな気がしてむなしくなってくるな。

これも思春期特有の社会への反抗だと嗤われるかもしれんが。

 

 

 

ここ最近のやる気のなさは純粋に忙しくて疲れていたのと、ここに書いたようなことがずっと頭の中で引っかかっていたからかもしれない。

忙しいというのはどうも自分の中での理由づけになるし、言い訳になるし、目隠しとなる。

実際その忙しさはストレスではあったが、不快ではなかったのだ。

それを一瞬で手放さなくてはならないというのはかなりの精神的負担になる。

 

そして、そのつらい状況下でどうしても救いを求めてしまう。

その場合の救いとはなんなのかよく分かっていないけどな。

希望の提示か、自己の肯定か、はたまた依存を伴う共存か。

まあ一番効果がありそうなのは共存ですよね。

一緒に落ちてくれるのは自分の鏡写しをいい状態で見れるから希望も肯定も見えてきますし。

まあそんな相手がみつかんねーからこんな感じでだらだらしてるのでありますがね。

もしくは一緒に落ちているふりをしてくれる人がいても救われるのかもしれませんね。

その場合須らくどちらかが嫌な思いを抱えなければならないわけですが。

 

そのような救いの手を求めるのはいささか非人道的というか、待っているのは道連れの結果だけな気がするので、妥協というにはハイリスク、愛というには歪が過ぎるといったところでしょうか。

回復する見込みかもしくは一生添い遂げる覚悟があるのならそれもありなような気がしますが、前者が見えないから救いを求めるのであり、後者は高校生には持ち難い。

なーかなか前途多難であります。

しかし一人で抱え込むのが辛いのも百も承知。

どうしたものかって言うのは正直知らんがあらゆる方面に少しずつ助けを求められるようにしておくのが一番現実的な気がするな。

今の私には1人見つけるのも精いっぱいではあるが。

結局ハイリスクを分裂させてローリスクの集団を作っただけであるが、その分裂にこそ価値があると思うのです。

そういうことをしたい、もしくはされたいとつくづく思うのです。

しかし人間関係というのはとても難しいものですからそううまくいかねえ。

みんなそれぞれの悩みを抱えているからな。

そもそも悩みとかいうもんが複雑すぎる。

もっと話したら即座に消えるとか4つ繋げたら消えるとか一列敷き詰めたら消えるとかそんな構造にしてくれんか。

なんかたまに話すたびに増幅していったりするやつあるだろう。

ああいうのを世の中の方が失くしてくれんか。

ちと世知辛いが過ぎる。

 

 

 

 

 

 

私はまだ話を聞いてくれる人がいるだけ幸せなんだと思っているけどな。

嘆いても叫んでも届かない声を張り上げているようで、ちゃんと聞いてくれている人がいることも頭に入れておかなくては。

それこそ不敬というものですから。

この場を借りてお礼申し上げる。

 

サンキュー!!!