深夜カラオケの代償
部旅行の夜、馬鹿のように歌って叫んで喉を潰してしまいました。
まあウォームアップもしてねえしホテルのカラオケなせいで何故か飲食禁止だし45分くらいしか時間がなかったから阿呆みたいなセトリだったしで枯らすのは必然でありましたよ。
ハハハハハ
でもね、枯らしてもまだ叫び足りないのです。
まだ叫びたいのだが、叫べない。
勘弁してくれ〜
人間、どうしても限界というものが存在する。
根性論で「限界は存在しない」などとぬかす輩もいるが、例えば人間に空を飛ぶことはできないので限界は存在する。証明終わり。
存在してしまうんだよ。
でも、限界にぶちあたることはとてもストレスなのも事実。
実際、歌でなくても集中力がどうしても続かないことや、ずっと走り続けることができないことや、なんやらかんやら、とにかく限界というものを感じることはつくづく多い。
ちなみに、隣で4人がカードゲームをやっているので私は集中してこの文章を書けていない。
ここが私の限界だ。
しかし、今の限界を感じたとき、その限界の範囲を今より少し先にしたいと感じる。
ストレスがかかるからそのストレスの原因を断ち切ろうとするのはまあ自然なことである。
その行程を人々は「努力」と呼んだ。
私は今、喉をもっと鍛えたいと思っている。
それは今日喉を潰したことに起因しているのには間違いないが、実際度々思っていることでもあった。
ライブの後ろの方の曲になると声が出なくなるのを不満に感じているところはあった。
しかし、明確に意識化に形となったのは明らかに喉が枯れてしまった今日な気がする。
限界への悔しさは短所の、成長点の、具現化だ。
であれば、限界は未来の私にとって悪いことではない。
限界を感じることはマゾヒスティックな幸せだ。
もちろん成長には悔しさだけでは足りないけどな。
文章書くのを上手くなるには、ブログを毎日読んでいると言ってくれる同じ部活で同じバンドの可愛いギター弾きが必要なのだ。
そういうのがいるから続けられるところはあるよな。
まあそういうのはモチベーションをあげるものとして、悔しさは成長できるところを把握するものとして、離反させてちゃんと受け入れることが大切なのだと思います。
マジなんにもまとまんね〜
悔し〜な〜