キーピットリアル
人と人との関係は至って能動的である。
ただ、最初の動きがとても早いぶん、そのあとはどうもゆっくりと動くようで、その変化を主観的に捉えることは難しい。
いや、関係が変化するときはいつだって一瞬なのであるが、その関係の中で心理的ハードルを一つまた一つと越えていくうちに関係が密になっていくもので、それを捉えるのが難しいのである。(もちろん、密にならない場合も大いに存在するが)
人が密になった関係に気づくことができるのは、悲しいことに、大抵別れの時だ。
実際には、関係が深くなっていくことを分かることはできるのだ。
昔を思い出して「あの頃はこんなに仲良くなるなんて思ってもなかったよね。」などとしみじみとすることは結構ある。
だが、それらは真に今の関係性を理解できていないように思える。
何故ならあくまで頭の中の論理でどれくらい前とかそういった話をしているにすぎないのだから。
それに対して別れの際には嫌にでも気づかされる。
悲しさや虚しさや罪悪感や孤独感といった論理ではない感覚が胸中に襲ってくるから。
そして、どうしても後悔の念も押し寄せてくる。
今までは次はこうしようと思っていたものの「次」が存在しなければ、全て「後」に悔いを残すしかなくなってしまうから。
それはとても辛いのである。
もちろん、別れの全てが今生の別れであるはずがない。
一生会えない別れは特に今の時代、ごく一部であるはずだ。
それはわかっているのだが、それでも辛いのだ。
例えば、近くに住んでいたもうほとんど会うことのなかった母校の友人が遠くに引っ越すとなったら、少しであっても寂しい気持ちになるだろう。
それはきっと今の「いつでも会える位置づけ」との別れだからだと思う。
そのような別れであっても母校の頃の思い出が蘇り、別れたくなくなってしまうのだ。
話は変わるが、先日、宇都宮に住んでいたころの友人の母親が亡くなったという手紙が届いた。
私はもう当時の記憶がほとんど存在しないので驚きこそあれど悲しみはなかったが、私の母親は泣いていた。
その友人の母と私の母というのは、この先生きていても再び会うことはない両者だったかもしれない。しかし、その訃報は再び会えないことを確定させる事となり、私の母を悲しませた。
別れは現象ではなく、事実として起こってしまうのである。
少し例を上げたが、どうであってもそこに関係が存在している限り、多かれ少なかれ別れは悲しみを生んでしまう。
そんな悲しみに浸された私たちにできるのはその別れに価値をつけること、いや、価値を見つけ出すことだ。
その胸中をめぐる様々な感情を解剖し、その感情の原因となることを見つけ、それに折り合いをつけることこそ、別れに対するはなむけであると私は思う。
馬鹿みたいな話だが、別れをもってその人への感謝の念が膨れ上がることが多々ある。
その人がいない事で自分に生じる物足りなさ、動きづらさでしか認識できないものがある。
まず、それを別れ行く人に伝えなくてはならない。
貴方がいたから私はこうあれたんだ、と。
まずそれをしてから次に、その物足りなさを克服するために努力をしなければならないのだと思う。
よく別れの悲しさは時間が解決してくれるとか、そういった話をしていたりされたりする。
だが、果たしてそれでいいのか。
別れが生んだ空白は、今の自分では補えない部分ではないのか。
それを自分で埋めようとすることで成長していけるのではないか。
その別れの価値に気づけるのではないか。
実際、その空白を埋めるのは決して難しすぎるものではない。別れる前のその人はそれを埋める手本を見せてくれていたのだから。
経験として、別れというのは感謝の念と申し訳なさが強く感じられることが多い。
それらは、本来、普段から伝えていくべきなのだが、別れを以てでしか感じることができないため、普段から伝えるのは困難である。
どうにか、別れを用いらなくてもそれらに気づける敏感さを手に入れたいものだが、それがなかなか難しい。
まあ、仮にその敏感さを手に入れたところで別れが辛くなくなることはないどころか、手に入れるほど辛くなっていくのだろうが。
あるいは、その別れをもって自分がどれほど依存していたかを知ることもできる。
コミュニティーの狭さというべきか。
狭いほど悲しみの度合いが高くなるというわけではないが、孤独感はそれに比例すると言えそうだ。
もっといろんな人と関わっておきたかったと思う。
別れに際して他の人と関わりたかったなどとぬかすのは薄情者と怒られてしまいそうなものだけど。
別れは辛いが刺激的だ。
その刺激はうまく伝われば大きな成長点となる。
どうか、いつかの貴方との別れが、私と貴方の成長となりますように。
そして、貴方の幸せを心から願っています。