ハッピーバースデー
どうも。18歳になった私です。
いやーとうとうなってしまった。
ついにプロポーズが必ずしも冗談じゃなくなってしまった。
あんまり変なことは言えませんね。
ただでさえ結婚したいと喚いているのだから冗談と受け止められなくなってしまう。
本当は昨日書きたかったんですけど昨日は中学の友達と久しぶりに夜通し話まして、独りで文章カタカタやってるよりよっぽど良い時間を過ごさせてもらいましたよ。
その分ちゃんと今日しっかり書けば何ということは無いのです。
皆さん誕生日ってすごい不思議な気分がしませんか?
私だけ?
昨日の自分と今の自分はほとんど変わりやしないのにそこに年齢の変化があるという事がどうも不思議に感じるのです。
年をとった人間が大人と考えるとその1夜で1年大人になるプチ浦島現象が起こっている気分になる。
実際には年齢は大人であることとは関係性こそあれどイコールではない。
ものを言うのはその過ごした時間の中での物事の経験の量だ。
いろんな経験をし、いろんなことを考え、いろんなことを話す事こそ大人になることだとしよう。
そのため年齢を重ねることは少なからず時間の経過という経験は積むために大人の一つの指標ではあるのだ。
しかし、数年ほどの経験差ならいくらでも飛び越えてしまえるし、経験を忘れてしまう者もいる。
実際自分より年齢が若い人間に人生経験と思考に置いて完全に追い越されていると感じる事も多々あるし、逆に年長者に向かって自分の方がと思うこともある。
そこにあるのは年齢では無く主観によって左右される曖昧な人間性というものである訳だ。
結局私が言いたいのはそこにいる人間は急に大人になったりはしないため、誕生日だからと言って何かが変わるということはないのである。
これが中学生なったくらいの頃から感じていた誕生日というものへの不思議な感覚を生む要因であり、誕生日を祝うことへの多少の無関心さを私にもたらす思考の過程であった。
ただ、18の誕生日というのはその1夜で私を大きく変えんとする重要な日だ。
先ほど言った私の中身の違いというのは全く存在しないが、18になった途端外からの規制の多くが解除される。
これは誕生日を祝うに値すると思うのだ。
冒頭にあげた結婚ができるという事を筆頭に、
免許が取れ、選挙権がある。
あとはなんだ。
調べが足んねえな。
まあ多分クレジットカードとかも18以上とか色々あったはずだ。
とにかく、そういう規制が解除される。
よく18で規制の半分は解除されると言われると聞く。
後は二十歳になってお酒たばこが解除されたら後は議員への立候補とかそれくらいじゃないか。
その規制の解除という点で17の夜から18の朝へ動く時間はとてもめでたい。
逆に言えばあくまで年齢の価値などそれだけだという話である。
18になった。
なってしまったという感情は特にない。
気付けば大人になりたい気がしていた。
それは当たり前だが年齢の話ではなく思考の話である。
世にはびこる年長者たちより確たる自分で人を気遣い強く柔軟な思考でありたい。
経験豊かでありたい。
努力して今の自分がいるんだと胸を張って言いたい。
そう強く思っている今。
世間的に言っても年齢的に言っても精神的に言っても子供と大人の狭間にいる今。
頑張るしかない。
それは決して18歳だからではない。
高校最後の1年だからでもない。
大人になろうと強く思っているからだ。
これが思春期ってやつか。
成長店ってやつか。
後から見たときの自分史にターニングポイントって書いてやろう。
その変化が今起こり始めている。
起こり始めれば後は流れるだけだ。
もう私は大人になれる。
ハッピーバースデー私。
新たな自分の誕生を祝われた気分でいる。
奇を覗かず得る
自分の中に世間でのイレギュラーを探している。
普遍的な言い方をすると自分探しってやつなのかもしれない。
瓦礫に埋まったそれを探すために不必要なものを除けて除けて手を真っ黒にしている。
再三言うが面白い人間になりたいのだ。
進路希望にそんなことを書いて許されるなら嬉々として堂々とそう書いている。
しかし社会はそれを許してくれない。
面白い人間になるにせよそのプロセスを求めてくる。
そして、無限に広がっている分かれ道の中で面白くなるための道は示されていない。
全ては地平線の向こう側にあるものである。
現在地からは見えない。
道を決め歩き、もう引き返せなくなったところでようやくそれが面白い道に続いているかがわかるのだ。
あるいは、どの道も面白い道に続いているとも思える。
面白いというのはもちろんコミカルなだけでは良くない。
人間的な面白さが欲しい。
そのためにはオリジナリティが必要不可欠なのだ。
二番煎じでのみ構成されたコンテンツでは面白くない。
自分にしかできないこと、これをオリジナリティと言い、また世間からすればイレギュラーと呼ぶ。
とことん奇怪で無くてはならない。
唯一無二とはそういうものだ。
パイオニアとはそういう者を指す。
しかし奇怪なだけでは面白くない。
受け入れられる範囲でなくてはならない。
否、受け入れさせる技術があればいい。
だが、それがあるかどうかは先導して初めてわかるものなのだ。
そこに立った経験はほとんどなく、出来るかは誰にもわからない。
よって今の私はイレギュラーでありたいと思いながらも奇怪にはなりたくないという酷く中途半端な位置に立っているのだ。
奇を衒う自分が醜く思えてしまう。
実際、オリジナリティを気が衒うだけで形成しようというのは間違っていることのように思える。
もっと身近にあるのだきっと。
その気付かないほど身近にあるそれに一番に反応できた者が勝ちというそういう勝負なのである。
もしくは、その「世間」の範囲によってイレギュラーは異なる。
今の世間ではとことん異質であってもちょっと外に出てみればそれはありふれたものだったりする。
面白い以前の問題として見ることすら憚られるほど見飽きたものだったりするかもしれない。
奇を衒うとそうなる。
「奇を衒っている」という状態が既にありふれている世の中である。
そうなりたくない思いが今は強い。
1年前とは訳が違う。
人と違うことをしてると思われたくない。
でも唯一無二でありたい。
この矛盾したような二つを同時に達成したいと思っている。
これは前提の話だが、まずは私自身しっかり個として立たなくてはならない。
そもそも人間は一人一人違うのだから、そうなるだけで大きな一歩である。
そして、その先に行くにも必要不可欠なステップだ。
まずはここを目標にしたい。
そのためにはむしろオリジナリティの観点は排除すべきかもしれない。
個として存在するのに周りの存在を気にしているとはそれこそ矛盾であり、同時に成しえない事柄であるからだ。
まずはちゃんと立ってから面白くなっていこうと思う。
前も言った気がするが面白くなりたいと口に出すことはなんとも恥ずかしい事なのである。
これから先、面白い人間として見られたいという表明は正直その時点で面白くない。
はっきり言ってしまうと、これを読んでいる人には面白いと思われなくてもいいなと思っている。
次のステージで輝けるようにここではいっぱい泥にまみれておきたいと思うのだ。
もう恰好の付けられる体裁もしてないしな。
これは決してネガティブな話ではなく、私の生涯という長期的なスパンで見たコンテンツを如何に面白くできるかという超絶ポジティブな話である。
前にしか目がついていないぞこの男。
素晴らしい。
まずは自信をつけるところからだな。
これが個として立つことへのファーストステップである。
頑張ってこーぜ。
以上。
身体以上の容器
とんでもない寂寥感に苛まれキーボードを手に取りました。
どうしたものか。
まあ熱を出すとこうなってしまうというのは一般的によくあることでして、熱が下がってしまえばそれで済むとそういうわけなのです。
しかし、それだけではない。
なんとなく、今感じているこの寂寥感がどこかに行ってしまう前に何か形として残しておきたい気がしたのです。
熱が下がってしまえば済んでしまう感情と分かっているからこその感情でありますね。
そうなったら文章として残そうとそういうわけです。
本当は詩とかにしたいんですけど、あいにく完成度を突き詰めれるような状態でもないのでまたしても駄文にて失礼。
やっぱりこうだらだらと文字を書き連ねることにはどれだけ稚拙な分であろうとある程度の意味は保持しているような気がします。
この高校生の間の悩みや葛藤の一部始終をブログという形で残しておくのも全然ありだと思いました。
やっぱり毎日更新は続けていくべきか。
いや、更新ではなく誰にも見られないところで書き続ける方がいい気がしますね。
まあその辺はまた考えますけど。
実際この胸中に何やら正体不明の感情が吹き荒れたとて、それをどのように発散すれば解消できるのか私にはわからないのです。
それ故に何か形に残さなくてはと言いつつ全く残せない。
悔しい事です。
昨日今日とニコニコ超会議というイベントが幕張で行われておりまして、行くか若干悩んでいたのですが熱でおじゃんになったわけですがまあ家でもちょっと生放送見たり記事読んだりしていたのですね。
あそこのステージに立つような人間は何かしら個人で形を残し続けてきた人間であると強く感じたのであります。
別に人に見せびらかすようなものである必要はありませんが、そういった事をしてみたいと思ったのです。
そういったことの中身が全く出てこないのがまた難点なのですが、とにかく形に残るものを作ってみたいと思ったのです。
このままではただ人生を熔かして死んでしまう。
まだ先長い人生と言えども体感で言えばそろそろ半分を超すのです。
そしてこの悩み多き時期に何か大人の私では感じえない何かを形として残さなくては。
その焦りが渦巻いております。
と言っても今の私にできることは体調を回復させることのみ。
そして立ち上がればまた受験の壁が高くそびえるのです。
なんともばかばかしい事ではありませんか。
それでも何とか形にできるプラットフォームにありつきたいものです。
このままブログを続けるにせよ、ちゃんと形になるように整えないといけないとそういうことになりますね。
大事な高校生という時期、何が勉強が学生の本分であるか。
後から見て生きたと言えるようにします。
茨の道ですよ。
頑張ります。
重い頭を枕に沈めて
熱を出しました。
決して久しぶりというわけではないのですが、今回は症状が比較的重いというか、きつい感じなので参ってしまっている。
何なら体温計の写真でもあげたら面白くなりますかね。
あ、ならない。
そうですか…
自分は身体が昔からなかなか強くて、まあ小学校までは冬まで半袖短パンみたいな子でした。
中学のときも冬場の塾に短パンで行って怒られたりしましたね。
まあそんなことしても体調を崩さないので強い身体だったんですよ。
そして今日熱を出したのには明らかな理由があって、生活リズムの乱れなんですね。
最近まさに昼夜逆転の生活を送ってまして、主な睡眠時間が授業中なんですね。
それが昨日は校外学習で寝ることができなかったので生活リズムをずらして安定したのが乱れてしまったというわけです。
身体が強い弱いの問題以前に身体が最小限のパフォーマンスができるようになる条件というのがあって、それを昨日で越えてしまっただけなんですね多分。
この発熱が平日に来なかったことに安心しながらも恨めしく思っています。
ここから先、思うことはいっぱいある。
生活リズムがずれている原因とかについてとかももうかれこれ6時間くらいずっと考えている。
前と同じ表現を使いますが、それらを話したところで、外気を触れさせたところで腐るほかに道がない。
腐った物は自分にとっても誰かにとっても不快なものである。
そのため、これを外に出してはいけない。
出したくない。
思えば、今まで沢山腐った物を輩出してきた。
それを腐らないように頑張っていた時もあったが、全てをコンテンツとして提供するには私は可愛すぎました。
突き詰めて行くとやはりエンターテインメントでありたいとそう思うのですが、そうなるには未熟すぎる。
自分を中に置きすぎている。
大したことではありません。
一端毎日ブログを書くのはやめます。
まあもう2日ほどあけてしまったので今更といったところですが。
陰鬱なことを考えている時は文章を書くべきではありませんねというのが教訓です。
楽しめるときにまた書いていこうと思います。
以上。
幸福サイクル
日常を楽しみにできる才が欲しい。
これができる人間とできない人間とでは生きやすさが随分と違う気がする。
というのも私も以前はその日常を楽しむ感覚を持ち合わせていたのである。
最近ではそれも感じられなくなりうーんといった感じだ、
どうすれば楽しくなれるのだろうか。
日常を楽しくできるというのは例を挙げると起きることに幸福を感じたり、寝ることに幸福を感じたり出来るとかそういうことである。
その生きるうえで必ず通過しなければならない事項に幸福度が付随することこそ「幸せ」と名付けていいかもしれない。
実際できてる人間はどれほどいるかわからないが、世間に目を向けると割といる気がする。
隣の芝生は青く見えるなんて言いますから所詮私主観の根拠に欠ける予想ではありますが。
こういうことを言っていると「じゃあ幸せと思ってみればいいじゃない」という人間がいる。
親に言われました。
その結果はこれですね。
幸せ~幸せ~と言っているところにいざ本当に辛いことが現れると、すーぐに心が折れます。
嘘つきは幸せの始まり - 脳内宇宙の開示
二度同じところは通りません。
喉元過ぎた熱さを忘れない男です私は。
結局日常的な幸せを手に入れるには真に幸せを感じるほかないという結論に至ります。
ただ、こればかりはもう才能なんじゃないかと思うのです。
才能という言葉は努力を一切排除しているように聞こえてあまりすきではないのですが、こればかりはもうこの二文字に収束するのではないかと。
起きることを楽しくするために何かを頑張った人なんていないでしょ。
いたらごめんなさい。超すごいと思います。尊敬します。
いやーさすがにいないな。
何をがんばったら楽しくなるのかもいまいちわからんし。
やっぱりこればかりは才能ですよ。
そんな才を持っている人はもっと誇らしく思っていいと思います。
それだけでどれほど強い事か。
私もその才が欲しい。
いや、恋愛でもすれば楽しくなるのかもしれないですね。
そう考えると才とも言い難い。
でも結局恋愛が出来るかというところも感情の話になってしまうからどうしても努力ではどうにかできるもんじゃなさそう。
まあ楽しいと思える瞬間を気長に待つこととしましょう。
きっと恋に落ちるようにふっと心に射し込む時があるのです。
その時まで心を空っぽに頑張るしかない。
以上。
たった一握り
逸材は世界のほんの一握りであるとかいう言い方をよくする。
その言い方を聞いた時、私の頭の中には地球という箱に入れられた私とその他70億人の人間が映し出される。
そのひしめき合う我々の上から大きな手が振ってきて、くじを引くように人間を無作為に掴もうとするのだ。
その手をめがけて我々は一斉に走り、なんとかその手の内に入ってやろうと懸命にジャンプしある者は転び、ある者は零れ落ち、そして掴まれた人間を連れて大きな手はどこかへ行ってしまう。
その連れていかれた人間こそまさに逸材であり、成功者となる。
私もどうにかその一握りに入ろうと走る訳である。
今も走っているというべきか。
しかしその手のふもとで跳ぶことをためらってしまう。
その原因は転んだ時の痛みへの恐怖心であり、希薄な自尊心であり、勘違いした優しさに過ぎない。
あるいは単に見栄を張って一生懸命跳んでる自分が恥ずかしいのだ。
その姿を他人に見られるとかそういったこととは無関係に、ただ、その跳んでいる自分を私が認識するのが恥ずかしいのである。
そうしているうちにまた手はどこかへ行ってしまう。
悲しいが、仕方がないのだ。
跳ぶ努力をしない自分を手が勝手に選んでくれるわけがないのだからしょうがないのである。
しょうがないと言っても、実際立っているだけで手に掴んでもらえる人間は存在している。
そういう人間はよほどのラッキーボーイかあるいは、ただ手の下まで誰よりも先に走ったというだけかという話ではあるのだが。
しかし、それとは別として、手に掴まれるというのは運に左右されるところは大きいのだ。
適当に跳んでみたら偶然入れちゃったというケースもある。
ただ、それはごくわずかな確立である。
結局は跳べる人間にならなくてはならない。
私はいまだそうなれていない。
そうしているうちに、若干の不安が芽生えてきた。
自分は跳ぶ努力をしないのではなく、出来ないように思えてきてしまう。
跳ぼうとしたところでその筋力が圧倒的に足りないことに気付いてしまう。
そう思ったと同時に、そのほんの一握りという言葉に違和感が生じる。
ほんの一握りといったところで、手の大きさは決められていないのだ。
その手は世界の半分を掻っ攫えるような巨大な手であるような錯覚を起こす。
それに取り残されたような気がしてしまう。
そんな大きな手にさえ取りこぼされてしまってはもう新たな手など滅多に来てはくれない。
ここでようやく危機感を覚えた。
跳ぶ準備をしなければと。
実際にはそれは錯覚であるのだが、錯覚でもなんでも原動力になるのなら使わないわけにはいかない。
次こそは飛び込んでやろうと思います。
それで掴まれなくてもまた次に飛び込む反省にしたい。
いつか私を掴み損ねた手を後悔させてやるのだ。
地に足をつけ下を向いたままだった餓鬼を無視して他のやつを手にいっぱい抱えて帰った野郎の目にもの見せてやるわ。
なんなら私を握る手を選ぶくらいの気持ちでいたいですね。
一番握られて心地のよさそうな手を選べるように、明日も一人跳ぶ練習を続けるのである。
誰よりも高く飛べるように。
むいむいむむいむいむむいむい
先ほどまで散歩に行っていました。
今日は夕方に起きたのでコンタクトをつけず眼鏡で歩いたのですが気持ちが良かったです。
眼鏡はいつもつけているコンタクトより度数が低いのでちょっと視界がぼやける。
その状態で光を見るとぼんやりと広がって見えてそれがどうしてか心地良い。
以前夢で崩壊した橋に行ったのですが、その上から見える街灯と信号機の行列に心奪われ深夜の橋の上に立ち止まってしまいました。
深夜に寝巻きで外にいる非日常間もあってかなかなか良い散歩でしたね。
散歩についてはこれ以上特に広げることはありません。
そして、先ほど言った通り夕方に起きたので今日散歩以外に特にイベントはありませんでした。
じゃあもう話すことないやんけ。
というわけです。
一日をまた無為に過ごしてしまいましたね。
実際散歩中に色々と思考はしたのですが、人に話せるものではないので話せないというのもあります。
決して人からの目線が怖くて離せないとかいうわけではなく話しても私も読んでいる人も腐るしかないので話さねえほうがいいなと。
この辺の取捨選択はちょっと上手になったかもしれない。
ついに明日で100回目のブログ投稿のようです。
なんかしっかりと書きたい感じがする。
ただ明日は一日中模試があります。
結局無為な1日になるじゃねーか!
思考の上でちゃんと一日を積みたいですね。
以上。