幸福サイクル
日常を楽しみにできる才が欲しい。
これができる人間とできない人間とでは生きやすさが随分と違う気がする。
というのも私も以前はその日常を楽しむ感覚を持ち合わせていたのである。
最近ではそれも感じられなくなりうーんといった感じだ、
どうすれば楽しくなれるのだろうか。
日常を楽しくできるというのは例を挙げると起きることに幸福を感じたり、寝ることに幸福を感じたり出来るとかそういうことである。
その生きるうえで必ず通過しなければならない事項に幸福度が付随することこそ「幸せ」と名付けていいかもしれない。
実際できてる人間はどれほどいるかわからないが、世間に目を向けると割といる気がする。
隣の芝生は青く見えるなんて言いますから所詮私主観の根拠に欠ける予想ではありますが。
こういうことを言っていると「じゃあ幸せと思ってみればいいじゃない」という人間がいる。
親に言われました。
その結果はこれですね。
幸せ~幸せ~と言っているところにいざ本当に辛いことが現れると、すーぐに心が折れます。
嘘つきは幸せの始まり - 脳内宇宙の開示
二度同じところは通りません。
喉元過ぎた熱さを忘れない男です私は。
結局日常的な幸せを手に入れるには真に幸せを感じるほかないという結論に至ります。
ただ、こればかりはもう才能なんじゃないかと思うのです。
才能という言葉は努力を一切排除しているように聞こえてあまりすきではないのですが、こればかりはもうこの二文字に収束するのではないかと。
起きることを楽しくするために何かを頑張った人なんていないでしょ。
いたらごめんなさい。超すごいと思います。尊敬します。
いやーさすがにいないな。
何をがんばったら楽しくなるのかもいまいちわからんし。
やっぱりこればかりは才能ですよ。
そんな才を持っている人はもっと誇らしく思っていいと思います。
それだけでどれほど強い事か。
私もその才が欲しい。
いや、恋愛でもすれば楽しくなるのかもしれないですね。
そう考えると才とも言い難い。
でも結局恋愛が出来るかというところも感情の話になってしまうからどうしても努力ではどうにかできるもんじゃなさそう。
まあ楽しいと思える瞬間を気長に待つこととしましょう。
きっと恋に落ちるようにふっと心に射し込む時があるのです。
その時まで心を空っぽに頑張るしかない。
以上。