17年間齧った脛
もうすぐ私も誕生日ということで、父親からプレゼントに何が欲しいかを最近頻繁に聞かれます。
ただ、今欲しいものが特にない。
とても贅沢な話であるのはわかっているのですが、まあこればかりはどうしようもないのです。
おまけに、試しに図書カードとかを提案してみたところ、つまらないというLINEが返ってきました。
わしゃどうすりゃいいんじゃ。
こんな話を父親とするたびに欲しいものがない自分に驚かされます。
何故物は満たされているという実感がありながら幸せになり切れないのか。
贅沢でありながら一番貧相な気もしますね。
物で満たされることができるならどれだけ楽であろうか。
そう考えると今欲しいものは物理的に存在しないというだけの話なのです。
時間も欲しい自信も欲しい信頼も欲しい。
余裕も熱意も愛情も期待も勇気もその全てが欲しいのです。
しかしそんなものは誕生日プレゼントでもらえないことは百も承知である。
となると欲しいものはなかなか頭の前の方に出てきてくれない。
真に欲しいそれら無形の物に邪魔され出てこれなくなっている。
正直、欲しいものがないのであるから、父親の贈り物を断るというのが一番いい気がしていた。
ただ、あまりに催促されるものだからその心の内で何を考えているかを息子の立場なりに考えることにしたのである。
私の父親は浪人せずに大学に行き、同時に一人暮らしを始めたらしい。
そして、大学を出て就職して結婚して今に至るまで実家以外に常に帰る家が存在していた。
18歳になって完全に親の元を離れたわけである。
そう考えたとき、多分息子の18の誕生日というのに少なからず特別な思いがあるのだと思った。
となるとやはりちゃんとプレゼントとして何か貰わなくてはならないなと。
そうしなくては親不孝が過ぎるというものである。
決してもらうことが親孝行な訳ではないが、貰わなくてはならないのだ。
これもまさに贅沢な話ってやつです。
なんか家庭の事情とかについて話すのは気恥ずかしいですね。
この気恥ずかしさは一丁前に反抗期的な期間にいるからでしょうかね。
自分にはその期間が訪れないものかと思っていましたが、案外普通にその中にいるようでちょっとうれしいですね。
もしかしたら私も父親のように来年以降はもう実家住みじゃなくなる可能戦は充分にあるので、この期間も大事にしたいです。
ちゃんとプレゼントも選びたいね。
以上。
肩を寄せ合い宇宙に浮かぶ
4月19日、今日は好きな漫画の発売日でした。
しかし、今日が発売日であることを知ったのは今日の夕方だった。
学校帰りに本屋へ寄って漫画を買って家に帰ったわけであるが、妙に寂しさが残った。
好きな漫画の発売日という小さくも楽しいイベントを一切盛り上げられなかったことがどうも自分の中で心残りらしい。
面倒くさいと思うかもしれないが、しょうがない。
そう思ってしまったのだから。
以前よりマゾヒスティックという言葉を用いて、欲求に反して物事を成せない状態を幸せを溜めている状態だと言ってきた。
今日のこの寂しさはその延長線上にある。
もちろん心のどこかにあの漫画の新刊を読みたいという思いはあり、それ故に発売されたことを知ってから半日と間を置かずに購入に至ったわけであるが、もっと頭の前の方に持ってきたかったと思ってしまう。
決してそれは後悔というには小さすぎる感情であるのだが、意識してしまっては自分の中でどんどん大きくなっていってしまう。
ここにマゾヒスティックの弊害を見た。
もちろん「私の」と初めにつくわけであるが。
マゾヒスティックは限度を知らない。
自分の欲求が満たされない状態は作ろうと思えばいつまでも作り続けることができてしまう。
大げさではあるが、それが果てしなく行くところまで行った先にあるのは自らの死である。
すなわち、今日のこの残念さを突き詰めた先には死が待っている。
言い換えればただの時間の浪費である。
あくまで、本人は普段よりその時間の消費に見合った快を得てるとそう思っているわけであるのだが。
正直自分で何を考えているのかわからなくなってきてしまった。
それは普段のマゾを求める自分も今のそれを否定しようとする自分も、どちらも自分では無いような気がしてきたからに他ならない。
思考とは一番自分の近くにあってほしいものである。
今日はもう考えるのを辞めるべきかもしれないな。
それこそ漫画でも読んでぼーっと寝ればいいのである。
わー!やっぱこの漫画おもしれ―な!
今日漫画を買ってしまったことに寂しさを感じたといったが、同時に今日読めることへの嬉しさも感じている。
それら二つの相反する感情の中で、自分の思考という一つしかないものはその立ち位置を変え、感情に寄り添うしかない。
とするならば、マゾヒスティックもアンチマゾヒスティックも自分に一番近い思考と言えるはずなのだ。
ただ、感情に落としどころは必要ない。
二つあればその二つを独立させて浮かせておけばいいというだけのこと。
よって今日の思考はこれにて閉幕とする。
以上。
24時間ブログ
毎日やることを増やして行きたいと思っています。
今もノルマとして4つくらい毎日やることをやっている。
以前少し書いたかもしれないが、私はせいぜい器用貧乏になれればいいかなと思っている。
何かをとにかく極める人間は羨ましいが、そうなるよりいろんなことができる状態でその場に合った選択を自分でしていく方が性に合っている気がする。
だから出来ることは増やしておきたい。
出来ることを増やすにはやはり習慣的に練習をすることが一番の近道であると思っている。
その習慣のリズムとして1日という単位を使っているというだけのこと。
そうしてまた出来る事を増やしている。
しかし、出来る事というのは曖昧な話で、どのレベルで出来るとするかは主観によってしまう。
段位が合ったりすれば分かりやすいのだが、世の中それだけで計れるものもそう多くない。
であれば自分の経験に基づくしかないだろう。
ただ、年を取るにつれて小さいころに出来ていたことに自信がなくなっていくのである。
例えば、私は小学3年生までスポーツチャンバラという習い事をしていた。
如何せん人口はそう多くないし、道具がそろってることもなかなかないので習い事をやめてからあのスポーツに触れたことはない。
それでも中学頃までは俺はスポーツチャンバラができるという自負がなんとなくあったものであるが、最近ではもう出来る気がしなくなっている。
過去の経験や栄光というのは記憶から薄れると共に自分の中での価値も薄れていく。
それで本当に誇れるのかがわからない。
先ほどの例では辞めてから今まで8年の年月が経っているため仕方のない事のように思えるが、実際つい先日までやっていたことでも急に自信がなくなったりするケースはある。
私の自信の付け方が下手くそってのもあると思いますけどね。
ここで毎日何かをやることの話に立ち戻る。
毎日やることは自分の中での価値づけとして経験でありながらも進行中の事柄とできるのである。
今日やったと明日やるの間に自分がいるときであっても、その時間を自分にとってそれをしている期間として位置づけることができる。
それを自信として捉えることは不器用な私でも容易である。
過去の栄光でないから決して色褪せない。
今日も頑張る自分に価値をつけることは容易なのである。
そしてそれは努力のベクトルとして間違ったものではないということもまた自ら証明出来れば、確固たるものとして自分の中に存在させることができるのだ。
もちろんこのブログも毎日続けている事である。
ただ、正直あんまり文章が良くならない。
読んでいてどう思うかは各個人に任せるが私は良くなっていないと感じる。
ただ、確実に言えることとして、キーボードのタイピングが早くなった手ごたえは感じている。
そこに価値を感じても別にいいではないか。
元よりそもそも文章書くのを得意にするために始めたブログではなかったしな。
どのような副産物が手に入るかはわからないが、これからも毎日やることは継続し、欲を言えば増やしていきたいと思っている。
あるいは、やってみて途中でやる気が続かず辞めるというのも一つ副産物として手に入る経験とも言えるかもしれないな。
まあなんでも物は試しってやつですね。
頑張っていきたい。
ただ、毎日続けることの中に勉強が入らないのがなんとも残念であります。
以上。
落ち要らない楽しさに陥る
学校終わってからすぐに浅草に行ってきました。
以前模試で行ったときも痛感したが東京近いくせに全然行かないのでとても新鮮な気持ちでいけましたね。
あいにく小雨がずっと降ってたんですけどまあ商店街は屋根ついてましたしそんなに弊害はありませんでしたね。
寒いわけでもなかったので。
鯛焼きをひっさしぶりに食べましてね、いやーおいしかった。
鯛焼きの写真は一口喰ってから撮ってないことに気づいたのであげません。
なんというか浅草で食べる鯛焼きというだけでもうプレミアがついている。
既に美味い。
ちなみに鯛焼き屋にあった椅子で食べてたんですけど私以外の客全員外国人でしたね。
というか駅を出てからというものすれ違う人ほとんど外国人だった。
流石にこんな何もない平日の夕方に浅草観光してるのなんて外国人観光客だけですね。
そりゃそうだ。
ここからが本題。
私が何をしに浅草まで足を運んだかというとこれですよ。
寄席です。
落語ずっと見たかった。
実は去年の今頃他人と行く予定をたてたことがあったのですがこちらからおじゃんにしてしまったので結局行かずじまいで1年間経ってしまったのですね。
そんなわけでどうも一人では行きづらい気がしていたのですが今日念願叶っていくこととなりました。
もちろん一人です。
昨日の朝行きたい欲が急激に高まったので純粋に人を誘っている余裕はありませんでしたね。
感想をとりあえず一言で言うなら落語というものを舐めていたと言っておきましょう。
あくまで落語というものを生で見たことがなかった私の稚拙な考えとして聞いて欲しいのですが、どうも落語というのは日本の文化としての価値がバイアスとしてかかっている結果面白いと言われているだけのように思っていたのです。
これは本当に恥ずかしい話です。
ただ、やはり面白い話をするプロが集う場となったら一度行っておきたいと思っていた。
ただそれだけの話だったのです。
昨日今日で色々調べたことをそのまま流しますが、私が行った浅草演芸ホールで行われる寄席というのは落語以外のものも比較的多く取り入れている場だということなのです。
漫才であったり曲芸であったり手品であったり粋曲であったり。
特に人気漫才コンビのナイツはテレビに出るようになった今もよくここで漫才をするとのことです。
まあそんな感じでいろんなジャンルのエンターテインメントが楽しめるとそういうわけなんですね。
それがまあ面白い。
他のをやるから落語が際立つし落語をやるから他のが際立つといういい関係でありました。
そんなに語るのも無粋なので簡潔にまとめると、落語は笑えるのではなく楽しめるのだなと思いましたね。
いや、もちろん笑えるのですが、楽しいが先に来るのです。
ずっと微笑んでみてるところに笑いどころが来るから笑い声が自然と出るみたいな感じでした。
多分落ちなどなくてもこの楽しさは成り立つんだろうなあと思っていました。
抱腹絶倒みたいな感じではないのにとても満足感を得て帰れるのもすごいなあと。
面白さより楽しさに振り切った話、私も出来るようになりたい。
まあ、何年も修業した彼らと同じところに行くにはかなりの努力が必要でしょう。
遅まきながら、面白いの新たな境地を見た気がします。
今日はとにかくインスピレーションがすごかった。
この刺激をもっと早く受けておきたかったなと心底後悔しております。
多分また行きます。
以上。
金庫破り
土日の間、何もせずぼーっとただぼーっと過ごしました。
やりたくないことはいっぱいあり、やりたいことは無く、ただ時間の経過を待っているだけだった2日間。
それを抜けた月曜日の朝、自分の中に鈍いながらも確かに輝くものを見つけることが出来た気がします。
何がどうなったかは分かっているつもりだが特に語らない。
ただ、自分の中の何を良いものとし何を悪いものとするかという考え方のダイヤルを一つずらしただけのこと。
180度など回転させる必要はなかった。
そのわずかな回し具合で世界はあり方を大きく変えた気がする。
少なくとも明日は楽しみになった。
やりたいことも少しできた。
自分の肯定も少し上手になった。
これらは土日の間私が欲しがっていたものであるはずなのだ。
やはりしっかりと思考する時間は大事であるなと思う。
土日という2日の時間、確かに物理的にはほとんど動いていないがそれにより欲しいものを手に入れることができた。
こういうの大事だと思うのである。
また何かに苛まれたときはじっくりと布団の上で目を開けているようにしたい。
苛まれないのが一番だが、どうせまた苛まれてしまうからな。
文章化というアウトプットの前に思考というインプットをしっかりしたいとも思っているけど、その時間が果たして取れるのやら。
今は、あいにく少し忙しい。
楽しくなってきた。
以上。
無病息災を祈願してネットの海に顔を流す儀式がここ地球では毎秒行われています
「ネット上で顔を出さない事を一貫している人はただ旧型のネットリテラシーを守っている自分に酔っているだけ。」
こんなことを言っている人がいた。
面白いと思う。
私もいわゆる旧型のネットリテラシー及びネチケットに従い、未だネットに顔を出すことに抵抗のある人間の一人である。
そのためちょっと意見が偏った話になるとは思うが、それを理解したうえで話がしたい。
昔、と言っても私がネットに触れ始めたころなんて所詮10年前くらいだが、その頃と比べてインターネットに顔出しというものをする人が増えている事は明らかである。
一番大きな原因はスマートフォンの普及。
これにより撮った写真をすぐにSNS等にアップできるようになったため、自撮りを撮ってそのままインターネットの波へ送信という流れが特に若者の間で出来た。
また、それと通ずるところがあるが、小さいころからインターネットに触れる機会が増えたというのも大きな要因であると言えそうだ。
ここで初めの話に戻すが、いわゆる旧型のネットリテラシーというのはスマートフォンの普及というインターネットにおける一大革命前の暗黙の了解的な面を指していることと思う。
故に、スマートフォン普及後はそれに沿ったモラルを作り出せばいい話であり、その点においては一番最初にあげた意見は正しいと思うのである。
しかし、私は新たなモラルのでき方が諦念から来るもののように思えて来てしまう。
ただ、世間の流れに合わせ、自己管理の段階を全体で一つ下げただけのように思える。
元来ネットへの顔出しというのの危険性は顔を知られることと同様にその画像を勝手に使用されることにもある。
どちらも学校教育において指導されていると思うのでここでその危険性について話はしない。
まあ学校教育においてはやたらオーバーであるというか、どうしてもやめさせたいという思いが強く見えてしまうのであまり効果的でないように思えるのだが。
「そのSNSの発言、玄関に貼れますか?」みたいな話されますけど、あれ根本的に間違ってるから嫌なんですよね。
発言を全て玄関に貼る世界に生まれてるならどんな事でも貼れますしね。
もっと良い表現考えたほうが良いっすよ。
話が脱線しましたすいません。
私がしたいのは顔を出すということへの危険性自体は下がっているという話。
何故ならもはやネット上は顔写真で飽和しているからです。
インスタだろうがTwitterだろうがその他SNSにおいて、顔写真というのは溢れかえっています。
もし悪用しようとするにも、今貴方がネットにあげた顔写真が使われる可能性というのはごくごく低い。
もちろん日頃の行いが悪く貴方個人への攻撃に使われたなら話は別ですけどね。
話を再度変えて自転車の鍵の話をさせてほしい。
自転車の鍵、最近よく二重ロックが推奨されています。
私の最寄り駅の駐輪場でも二重ロックの注意喚起がされていた。
こんなの数年前までなかったと思うんですよ。
小学校の自転車教室でも鍵はかけましょうくらいにしか言われなかったはずです。
それが何故二重にならざる得なくなったかというと恐らく鍵をかけるのは当たり前になったからだと思うんですね。
考えてみればあんな自転車の鍵一つ盗む側としては本来どうってことないんですよ。
ものによりますが基本的に道具一つあれば切ったり外したり出来るんじゃないですかね。
それでも防犯上鍵をかけるのは鍵がかかっている方がかかっていないものより盗むのが”面倒”だからだと思うんですね。
決して盗めない訳ではないが容易と面倒の二択があれば容易なほうを選ぶはずです。
だから道具一つで外せる鍵もつけるべきであった。
しかし、それが段々と定着してきて、どの自転車にも大体一つのカギは吐くようになった。
だから盗む側も一つの鍵を外す面倒をかけつつ盗むようになった。
そうなると今度また外すことはできる鍵が一つより二つのほうが面倒だから鍵が一つのものが盗まれるようになるとそういうわけです。
今は二重ロックが呼びかけられてますがまた二重ロックが定着したら三重ロックが呼びかけられると思います。
まあ流石に二重で定着することは無いと思いますけど。
ここでネットの話に戻す。
つまり、インターネットの顔出しについてはこの自転車のカギの例と逆の事が起こっている。
鍵をかけてない自転車がめっちゃ増えたから自分も鍵かけなくても盗まれる確率は下がったよみたいなそういう話だと思う。
あるいは、自分がどれだけ意識して顔を出さないようにしても高校生の身分であれば周りの人間が勝手に集合写真をあげたりするから自分だけが出さなくても無駄だという諦め。
こんなところだと思ってるんですよ。
もちろん全員がこんなこと考えて顔あげてるなんて思ってないですけど。
結局は周りは鍵かけてないけどいつまでも鍵をかけ続けてる自分に酔ってるだけかもしれないですね。
危険性が下がっているのは理解しているのに出したがらないのにはそういった面もあるかなと。
途中ちょっと匂わせましたけど、炎上とかしやすい質の人間はあげないほうがいいと思います。
狙われたときははなから危険度ましましなので。
自分の意見のまとめとしてはスマホが普及した今さほど危険もないと思うので顔を出したい人は出してもいいと思います。
ただ、あくまで劇的に下がったというだけの話なので、それを可能な限り下げたいというのであればやめればいいというだけの話です。
そういう人がいることも全高校生理解しておいてほしいと思います。
私はもう最近その辺考えは丸くなってきていてもうあげられてても良いかなーって思ってます。
後純粋に顔がコンプレックスであげられたくないって人もいますからね。
考え方は人それぞれですのでどうしろということは無いと思いますが、人のをあげるときは注意でありますよ。
以上。
三点バースト
最近毎日のように髪を切れと言われます。
自分でももう流石に切らないといけないと思う。
ただ、ここまで伸びたのは初めてであるためちょっともったいない感じもある。
実際期間にすると4か月ほどそのままにしてあるわけで、それを級友に言うと「汚い」などと言われるわけですが、そろそろ切ってもいい頃合いではありますね。
髪を切るという行為は髪が長くなるほどしづらくなる質でして、というのもある程度短いうちに切ってしまえばそんなにかかわりのない人間からすればわからないものを、伸ばしてからでは話したことがないクラスメイトからさえも気づかれる可能性がある。
それがどうも気恥ずかしいのであります。
もっといえば、長ければ長いほど私も髪というものを意識するわけです。
今も目にかかる髪を退けながら画面を見ています。
イヤホンをする時も除けなくてはなりません。
それは急になくなるとなればきっとどこかで違和感を感じてしまう。
そういうのも少し切るのをためらう理由の一つかもしれません。
月並みな言葉に大切なものは失ってから気付くという言葉があります。
では失う前から大切さに気づいているものはどうなんでしょう。
まあそれも大切なんですわ。
結局何にだって言えるんですわ。
あの言葉に特に深い意味とかないっすよね。
ただ大切なものは失おうと失わなかろうと大切だという話です。
実際この髪はそこまで大切でもないな!
ただ床屋に行くのがめんどいだけだ!
ということで近日中に切りたいと思います。
切ったのちその大切に気付けたら良いですね。
以上。