脳内宇宙の開示

日頃考えていることを書きます。

肩を寄せ合い宇宙に浮かぶ

 

4月19日、今日は好きな漫画の発売日でした。

しかし、今日が発売日であることを知ったのは今日の夕方だった。

学校帰りに本屋へ寄って漫画を買って家に帰ったわけであるが、妙に寂しさが残った。

好きな漫画の発売日という小さくも楽しいイベントを一切盛り上げられなかったことがどうも自分の中で心残りらしい。

面倒くさいと思うかもしれないが、しょうがない。

そう思ってしまったのだから。

 

以前よりマゾヒスティックという言葉を用いて、欲求に反して物事を成せない状態を幸せを溜めている状態だと言ってきた。

今日のこの寂しさはその延長線上にある。

もちろん心のどこかにあの漫画の新刊を読みたいという思いはあり、それ故に発売されたことを知ってから半日と間を置かずに購入に至ったわけであるが、もっと頭の前の方に持ってきたかったと思ってしまう。

決してそれは後悔というには小さすぎる感情であるのだが、意識してしまっては自分の中でどんどん大きくなっていってしまう。

ここにマゾヒスティックの弊害を見た。

もちろん「私の」と初めにつくわけであるが。

 

マゾヒスティックは限度を知らない。

自分の欲求が満たされない状態は作ろうと思えばいつまでも作り続けることができてしまう。

大げさではあるが、それが果てしなく行くところまで行った先にあるのは自らの死である。

すなわち、今日のこの残念さを突き詰めた先には死が待っている。

言い換えればただの時間の浪費である。

あくまで、本人は普段よりその時間の消費に見合った快を得てるとそう思っているわけであるのだが。

 

正直自分で何を考えているのかわからなくなってきてしまった。

それは普段のマゾを求める自分も今のそれを否定しようとする自分も、どちらも自分では無いような気がしてきたからに他ならない。

思考とは一番自分の近くにあってほしいものである。

今日はもう考えるのを辞めるべきかもしれないな。

それこそ漫画でも読んでぼーっと寝ればいいのである。

 

わー!やっぱこの漫画おもしれ―な!

 

今日漫画を買ってしまったことに寂しさを感じたといったが、同時に今日読めることへの嬉しさも感じている。

それら二つの相反する感情の中で、自分の思考という一つしかないものはその立ち位置を変え、感情に寄り添うしかない。

とするならば、マゾヒスティックもアンチマゾヒスティックも自分に一番近い思考と言えるはずなのだ。

ただ、感情に落としどころは必要ない。

二つあればその二つを独立させて浮かせておけばいいというだけのこと。

よって今日の思考はこれにて閉幕とする。

以上。