脳内宇宙の開示

日頃考えていることを書きます。

思考時間を差し出す召使

 

時間というものについて考えをめぐらせています。

とても不思議なものです。

その時間が有意義であってもその時間が長く感じれるかというとそういうわけではなく、むしろ有意義であるほど短く感じる。

無意義であっても例えば睡眠中なんかは短く感じる。

短いというか一瞬だ。

ここで睡眠は無意義じゃないだろという声が聞こえる気がするが、あくまで過度な睡眠の話だ。

ある一定以上の時間睡眠をとると体に悪影響を及ぼすらしいからな。

 

 

 

では、時間を有効的に使うにはどうすればいいのだろう。

これは答えの無い問かもしれない。

何故なら有効的というのはとても抽象的であり、誰もそれを測ることができないから。

以前書いた通り、自分にとって無駄であるかそうでないかは後付け的に決められるためそれを今の自分が決めることはできない、

そもそも決めることが不可能なのではないか。

 

一つ、有効的とは違うかもしれないが時間を惜しむ手段が存在する。

それは他人から時間をもらうことだ。

そんなこと出来ない、と思うかもしれないが出来る。

というか現にできている。

時間をもらう是即ち何かを手伝ってもらうことだ。

 

自分が何かの作業をする際他人の手を借りると大抵一人でやるより早く終わる。

しかし、その分手伝った人の時間はその作業に費やされることとなる。

この早く終わる分と費やされる分はイコールで結ばれるかというと必ずしもそうではなく多少プラスマイナスが生じる訳だが、それでもこの時間のあり方はまさに時間を貰ったと言うべきであろう。

もしくは、例えば昔の研究者が一生をかけて研究した事を今の我々は1冊本を読んで勉強しただけで理解できる。

それはその研究者の一生分の時間をいただいていると言えないだろうか。

 

作業の方の例に戻るが、それらは時間を貰ってはいても失わせているわけではないということは注意しなくてはならない。

その手伝うという好意にも意味があり、時間をただもらうだけではなく、その中で有意義な時間を返すことも出来るのだ。

そもそも人間関係とは全てそのように成り立っている。

私と誰かが話す時、きっと私はその誰かから話した分時間を貰っている。

しかし、それに私なりの価値を利息としてすぐさま返しているのだ。

そしてそれは逆も然り。私も時間を与えている。

あくまで一方的な搾取でないというのは理解しておきたい。

もちろんそういうケースも存在し得るが。

 

私は誰かに有意義な時間を返せる人間になりて―なと思うが話すときにそれを意識していてはどうも失礼である気がする。

私として話した先にその結果が待っているようにしなくてはな。

 

 

以上が有効的な時間を得るために必要な事だと思っている。

これはあくまで友好的な人間にしかできねーことだからそこ注意です。

これが言いたいがために効率的ではなく有効的って言葉を使ったのです。

ハハハハハ