紙にペンで描く宇宙
紙で色々なことを表現する方法を考えていました。今日1日使って。
紙とペンというのはやはりすごい。
言語や絵での表現を成せてしまう。
そして言語と絵、もしくは「無」以外の表現方法を考えてみたがどうも難しそうだ。
一つ、「楽譜」というのを考えてみた。
メロディは言語や絵とは異なる表現方法だ。
もし、楽譜で何かを伝えることができる人間と、楽譜から何かを読み取れる人間がいればその間でこのコミュニケーションは言葉と絵から離れた物となり、しかもそれを紙面で行うことができるようになるというわけだ。
そう考えると楽譜というのはとても不思議なものだ。
絵というのは視覚情報であるため、紙に目に見える形で残して相手に伝わるのは至って普通の事であるが、音楽というのは聴覚情報である。
それを視覚情報として書き起こし、他者の脳の中でそれを再現させるというのはとても面白い。
まあ統一された楽譜の読み方の認識がないといけないことを考えると、一種の言語であると言えるのかな。
五線譜に音符を書く(もちろん楽譜はそれだけではないが)という絵とも思えるその記号の羅列は言語の作用を持っている。やっぱり面白い。
ただ、ここまで書いてなんだが、私には楽譜を書いて何かを伝えたり、楽譜を読んで何かを感じる技術はない。というか演奏されたものを聞いて何かを感じるのでも精いっぱいだ。
これをコミュニケーションとして成り立たせることが相当難しいというのは自明である。
ノートとペンを机において2時間考えたが、これ以外にノートの1ページを使って表現する方法を私には思いつけなかった。
どうしても言語か絵に帰着してしまうのは世の理か、それとも人間の依存か。
一旦机を離れ、色々しているうちに、それがノートであるせいで方法が思いつかないのだということに気づいた。
すなわち、それがノートという形を持たず、1枚の紙であるなら折る事も切る事も組み合わせることもできるのだ。
それなら言語や絵を用いずとも何かを表すことができる。
切るのはノートでも可能ではあるのだが、「ノート」という固定観念に縛られているときは出てこなかったのである。
妙に感動してしまった。
常識の部分を覆す類のクイズの正解が分かった時のような気持ちよさがあった。
人間は利便性を持たせるために紙を束ねてノートを作っているのに、それによって紙の自由度を損なっているというのは面白い。
1枚ではどこかに見失ってしまうからな。
その辺は人間も同じかもしれないですね。
一人のほうが自由ではあるが、自分を見失ってしまうものなのです。
誰かと束なっているのが幸せなのでありますよ。
うわっ!くっっさ!!