爪を千切ってラブコール
最近今の自分には到底及ばない人間を見ている。
自分の遥か先にいるように見える人を見るのはとてもセンセーショナルで面白い。
ただ、ふとした時に悔しくなる。
その境地に自分はまだいけないから。
特に自分が理想としているところにいる人間は憎さすら感じますよね。
しかし、悔しいのその先にある感情を私は愛している。
人をみてすげーとなるとき、自分もそうなりたいと思う時とはなから諦めるときがある。
割合で言えば諦めるほうが遥かに高い。
すげーとなるたびにそれになりたいと思っていたら人生何周しても足りないからな。
だからそうなりたいと思う数少ない時、その理想形を好きになるときは多々ある。
好きなのだが、嫌になる。
好きな理由を自分の中に列挙したとき、それは全て今の自分に足りていないものであることに気づかされる。
それを摘んで摘んでとしていった先に好きな人がいる。
そこまで言ってはじめて同じ土俵。
それに勝るにはそこに自分らしさだの多様性だのを詰め込まなくてはならない。
努力が必要であることは明白である。
別の道を通ってそこまで到達できればそちらの方がきっと良いのだが、そもそもそれを成し遂げられる自信も特に持ち合わせていないから嫌になるような気がしている。
漠然とした話ではあるが、私は面白い人間になりたいのである。
持ちネタが面白いとかそういう話ではなく、人間的な面白さが欲しい。
とことん多才でありたい。
人生経験豊富でありたい。
饒舌でありたい。
そう思いながらまた自室に籠っている。
良くない。
これを書きながらもっと外に出たいという欲求がふつふつと湧き上がってくる。
こんな思いをどうにか昇華させて安定した人間的面白さを手に入れたい。
そもそもが客観に依存したクソ不安定なものを追っているせいで今の自分はガタガタである。
どうにか認められたい。
認めさせる自分でありたい。
いつかそうなれればいい。
今の不安定な自分を笑い話に変え、誰かの理想形と成れればいい。
そう思いながら今日も具現化された理想を見ている。
初めに書いたように、私の好きな人間はもれなく私に悔しさやその先にある憎さをもたらす人間である。
しかし、悔しさとはもちろん悪いものではない。
再三いうが悔しさとは成長への初動である。
せっかくそれを感じさせてくれる人間がどんどん増えていくのに、それを使わないわけにはいかない。
さらに面白くなってみせるぞ。
大人になってから見返してやれ。
逆に、そうならなくては大人になってはいけない。
ネバーランドで苦しめ私。
苦しみもまた人生経験かな。
面白くなってくれよ。
よろしく。