感化された習慣
先日とてもナチュラルに舌打ちが出てしまってビビった。
なんでだったかは忘れてしまったが確か何かにつまずいたとか何かで。
とても良くないな。良くない。
改めたいと思うと同時になんでむかつくことがあると舌打ちをするんだろうと思った。
むかついて壁を蹴るとか物を投げるとかは破壊衝動に基づくもので至って普通というか理にかなっていると思うのですが、舌打ちには何の意味があるのかがわからない。
まあ普通と言いながらも道端で壁蹴ったり持ってる物思いっきり投げてる人がいたら明らかに怖い人ですけどね。
したいのはそういう話ではないのです。
何故かわからないけど舌打ちをする、という中には「むかつく」という感情と「舌打ち」という行為が多くのケースにおいて繋がっていることを我々が理解している事が表されています。
この繋がりを理解するに至ったのは恐らく小さいころからむかついた時に舌打ちをする人や物語の登場人物を見てきたからじゃないかと。
舌打ちばかリ例に挙げていますが、何かに悩んだ時に頭をかきむしったりするのも似たようなもの。
お腹が痛いからお腹を抑えるのとは訳が違い、悩んでいる人が頭をかきむしっているのを見たことがあるからなんとなくそうしてしまうみたいな感じ。
まあ頭をかきむしるのは行き場のない破壊衝動を頭皮へダメージを与えることで発散させているとも考えられるか。
やはり例としては舌打ちのほうが分かりやすいか。
ここで純粋な疑問として、一切そういった文化と触れあってこなかった人間はそういった例に対してどういう行動をとるのだろうか。もしくはその行動をどう理解するのだろうか。
まあ独りで生きれる人間が存在しない以上感情と行動の間に何かしらバイアス的なものがどうしてもかかる訳ですが、仮にそういったものが全くない環境で生きてきた場合至って合理的になるのか本能的になるのかとても興味がある。
これは赤子を隔離して育てたりしないと分かり得ない。
そして隔離すれば社会性は失われるわけで、そうするとそんな事を考える以前に色々問題が出てきてしまうので実質不可能だ。
結局いろんな人と関わって行くことが近道だな。
他の国の人は他の文化を持っているだろうし。
それは面白そうです。
むかついた時に自然に舌打ちが出てきてしまうの、客観的に見てあんまりよろしくないというのもあるが、所詮世間が行動と感情を結び付けたことを無意識にやってしまうということに悔しさを感じているのはあるな。
せめてもっと他人がやらないような行動にしたい。
次からそういう時は一回だけ地団太を踏むことにしよう。
地団太を踏むって慣用句としては使われますがあんまやってる人見ませんしね。
きっと周りの人もワンテンポ遅れてジャンプしてくれるはず。
やー