脳内宇宙の開示

日頃考えていることを書きます。

生きる言語への依存

 

人間を「特定のワードを発すると肉体的ペナルティを課せられる」というルールの中で生活させ、段々と特定のワードを増やしていき日常会話すらままならないほどになった時、人間はそれでも何とかペナルティを掻い潜るように会話をしようとするのかそれとも言語での会話をやめるのか。

 

興味の湧くテーマではありませんか。

言語というのはあくまでコミュニケーションの一つにすぎないはずなのですが、どうしても現状を見ると依存してしまっている。そしてその依存から抜け出す方法は見つけ出すことが難しい。否、見つけ出す必要があまりない。

 

表情の読み取りあいもコミュニケーションの一つですが、これは手紙や最近ではインターネットがあるので依存と言えるほどのものではありません。

その他手紙であれば筆跡などもある種コミュニケーションといえるかもしれませんが、依存とはほど遠い付加価値的な位置づけですね。

 

そう考えるとやはり言語というのは特別だ。

この先我々と離れることがないのであれば、もっと大事にしていかなくてはならない。

離れる方法があるなら離れてみたいけどな。

 

 

 

本題はこっから。

最近の「イキり」って言葉があたかもブームがきたかのように使われ出しているの、個人的に気に入らない。たまにポロっと使っちゃうけどな。便利だから。

以前も書いたが、若者言葉ってすげー使いやすいじゃないですか。

気に入らないもの全部に「うざい」って言えてしまうじゃないですか。

別にそれはいいんですけど、また新しい(実際には新しい言葉というわけではないが)「イキり」という言葉が来たことで、あたかも「うざい」とは別の価値を持っている言葉かのように「イキってる」って言えるようになって、今までうざいって言われていても別に注目されなかったことがイキっているといわれることで再注目される対象になっているような、意味のない言葉の入れ替えが価値を生み出しているようなそんな気分になるのです。

 

多分「いや、うざいとイキりは違うでしょ」っていう人もいると思う。

ただ、客観的に見て本来の意気がるの意味で使われてる事のほうが昨今少ない気がするんです。イキりってワードをうざいって言いかえても多分何の違和感もないし、うざいって意味でイキりって言葉を使って誰かの悪口を言ってみても隣の人はそれなとかわかるとか言ってくれると思いますよ。

 

 

あとは特に他虐的なことを言った後に「今の俺イキってるわ~」って誤魔化すのすげーずるくないですか。

それって言いたいことを言って反論の余地を与えず逃げ出す事だと思うんですよ。しかもそれを「イキってる」という表現一つで成しえてしまうの、なんだかもやもやします。別に反論して口論を巻き起こしたいわけじゃないっすけどね。

 

 

 

 

全体的に口調が強い。

決して若者言葉に否定的なわけじゃない。ただ、よくわからん言葉がまるで一つのバリエーションかのように存在し、それで貶されたり貶されてるところを見るのが気にくわないだけ。

もういっそのこと全ての悪口をチョベリバに変えれば面白いんじゃないかとさえ思う。

 

今回に関しては至って個人的に帰着させている文章であるので、確かに個人的に気にくわなくはあるが、他人に対してやめろというつもりはない。やめろと言ってしまっては言語でのコミュニケーションをとらなくなる可能性があるからな。

その辺は感じ方に任せます。私の話に納得してくれたなら嬉しい、とかそんくらいのもんです。

 

 

悪口って別に悪くないというか、しょうがないことだと思うんですよ。

どうしてもストレスがたまるときはあって、その原因の人がいたら言ってしまう。

ただ、それを一言で片付けてしまうのはとてもコストパフォーマンスが悪い。言う方も言われる方も。

だったら原因から何から全部考えた事を言語化する方がましだ。

このブログもその一つにすぎないと、そういう話である。