その衝動が良い
最近段々感性が肥えてきている気がする。
作曲の話をしたときに音楽については見えるものが増えたという話をしたが、そんな一つ一つの事象にではなく、全てに対して感じ方が良くなっていると思う。
いや、感性が変わったわけではなく、自分の感性を信用できるようになっただけかもしれない。
恐らく自らの感性を言語化し、公開し、見てもらうという一連の流れがこの自信をつけてくれたんだと思います。ありがとうございます。
さて、話が変わるのですが、衝動買いってしたことありますか。
目の前にすげーいいものが現れたとき急に買ってしまうあれです。
あれを今日してしまいそうになったんですね。
あいにく財布の中の持ち合わせが少なかったのでパスということになりましたが。
この衝動買いというもの、大抵「してしまった」という表現で使われます。
先ほどの私もそういうふうに使っていますね。
しかし、改めて考えると思うのです。むしろ「衝動買いをすることができた」くらいのものなのではないかと。
急激に欲しいものが目の前に現れたときにそれを買う事は、急激に欲求を高めそれを即座に解消させるいわば他に類を見ない超のつくほどの快です。
(欲求についての私の見解はここで述べた通り。)
そんな経験は実際中々出来ない。なぜなら欲求というのは感覚であるが故、操作できるものではなく、欲求が訪れる瞬間は至って気まぐれだからである。いくら「衝動買いがした~い」と思い、待ちわび、四肢を地面に叩きつけながら泣き叫んだところで感覚はそれについてきてくれない。
となれば、衝動が自分のもとに来てくれたときに満たしてあげるしかないじゃないか。それが一番気持ちいいのだから。
ああ、言いたいことはわかっとる。衝動買いを「してしまった」と表現するのはそれに後悔がどうしても付随するからだろう。どうして買ってしまったんだと頭を抱えている過去の自分が思い出されるからだろう。
その気持ちはとてもわかる。が、それは貴方の衝動がまだ未熟だからである。
感性に磨きをかけ、精錬されたものとすることができれば、その衝動は自分にとって正しいものとなり、衝動的であっても後悔を生まないすなわち自分に価値のある買い物をすることができるようになるだろう。
むしろ買うか考える判断材料としての衝動と言い変えることができるようになる。
つまり必要なのは自分の信用に値するほどの主観的に正しい感性を保持できているかということ。
それさえ持っていれば衝動買いはとても価値のある素晴らしいものに昇華できる。
もしかしたら、この感性という判断基準を成長させ続ければ40歳になるころには惑わないようになっているのかもしれませんね。
まだまだ道は長い。日々精進。
私は今日の衝動に応えられなかった自分の財布が悲しくてしょうがない。
今の感性は17年間で確実に一番センスがある状態だからあの衝動は間違いなくいいものであったというのに……
いやー本当に残念です。
今日の衝動は忘れないようにして自分に御預けをくらわせることで欲求をさらに高めなくては。それでもビックバンと呼ぶべきあの爆発的な欲求の高まりには敵わないけどな。
まあ何はともあれ、また今度買いに行くことができれば結局僕は幸せになれる。
やはり欲求というのは素晴らしいな!