脳内宇宙の開示

日頃考えていることを書きます。

思春期の日記(やる気編)

 

さあ、今日もブログを書いていこう。

今日で10日目ですが初めのやる気を継続出来ている自分に感動しています。いや、むしろ始めたときよりモチベーションとしては高いかも。

このブログへのモチベと同じくらいのモチベを勉強に当てられたらいいんですけどなかなかそうはいかないのが残念でありますな。最近は通学へのモチベも低い。

 

 

思えばこの1週間私の世界はブログを中心に回っていた気がする。何よりも優先すべきはブログを毎日書くこと、そんなふうに思っていた。

寝坊助は観念の打破を夢に見るが - 脳内宇宙の開示

 これは三日前の私の談であるが、今は段々と中心ではなくなってきた気はしている。しかし、これ以上にやる気を出せるものがないから消去法的にブログが一番になってしまっている現状は否めないかもしれない。

未だに勉強に身が入らない私にもっと頑張れよという声が聞こえるような気がする。いや実際今日東進の担任に言われてきたところなんだが。

でも、思うわけです。やる気が無いのは俺のせいなの、と。

いやそうやって、じゃあ誰のせいにしたいの、と申しますでしょ。それが分からないからもやもやするのでありますよ。

今日は思春期全開です。大人はおしゃぶり咥えて黙ってやがれ。

 

 

 

私なりの答えから申させていただくと「やる気が出ない」というのは自分のせいというのが半分、それ以外のいわばこの世界のせいというのがもう半分だと思うのです。

何かに対して楽しんだり出来ない自分と、何かに楽しむだけの価値があることを私に伝えられない世界と半々。

それがちょうど天秤に乗せると釣り合っている。面白いくらい中立に。

しかし、片方だけを見るとその見ている方だけ少しだけ下がっているように錯覚してしまう。

だから自分のせいとも世界のせいとも言えてしまう。そんなものかと。

 

 

「もっとやる気を出せ」とうるさい大人が喚いてきたら、それは天秤の私側だけしか見ていないからだ。そしてそれは最も楽な考え方である。一人の責任にして解決できるのだから。

しかしやる気というのは論理ではなく感覚である。「もっとやる気を出せ」と言われ、仮にその出し方を説明されたところでそれだけで出せる人間が果たして何人いるだろうか。以前書いたが、どうしても感覚は論理より優れてしまう。やる気が出ないという感覚にかかれば他人の言うやる気を出せなど一発KOだ。

よって、外野が「やる気を出せ」と言うのは間違いだと言わせてもらおう。むしろそういわれるとやる気が下がるって人も少なくないだろうな。

 

こう書くとやる気が出ないという感覚に勝てるものはないんだからその感覚にさせたこの世界が悪い、という結論に落ち着かせたくなる。

しかし、やる気がない人間には「やる気を出したい」という意思も同時に存在するはず。その感覚同士を戦わせてみるのはいいことだと思う。少なくとも間違いではない。すなわち、「もっとやる気を出せ」と私に言っていいのは私だけなのだ。そして逆に言えば自分にやる気を出せと言えるのは自分だけなのだからその分の責任も付きまとうだろう。

 

また、やる気というのは身近なところにあったりする。心理学が言うには少しだけでいいからやろうと思ってやってみると段々やる気が出てくる、というケースも少ないという話である。そういった例を見るに、やる気がないところを無理やり這い出てやる気に出来る人間もいるらしい。努力でやる気は超えられる”場合もある”。

 

 

先ほどの天秤の例を言い換えると、努力してやる気に出来ないのは自分のせい。感覚的にやる気に出来ないのは世界のせい。そう言えるかもしれない。そしてやる気が出ないことを気負ってしまう人は努力の方ばかり見てしまう人だ。もっと世界のせいにしていい。

私はやる気が本当に出ないときは逃げるのが一番有効なのだと思っている。やる気は努力の中でしか見つけられないものではなく、あらゆるところに隠れている。それはもしかしたら小田原に自転車で行く道の途中にいるかもしれないし、自分で書いたブログの行間にいるかもしれないし、平日の府中本町にいるかもしれない。それを探すには一旦離れて探し回ってみるのがいいのだ。きっと感覚が勝手に見つけてくれるはず。

 

しかし、多くの場合やる気ちゃんは義務の中には隠れていない。そこにあるのはやらねばならないという強制された観念だけだ。先に述べた他がやる気を出せと言ってはいけない理由はここにある。やる気を出すことの強制化は一つのパラドクスと言えるかもしれないな。

 

 

 

 

 

 

話が心なしかいつもよりあっちこっちと跳び、まとめも上手く作れないのは私がまさにいま自分のやる気のなさに悩んでいるからか。もっと考えていけば深層心理が浮き出てくるかもしれない。面白い。

 

 

 

 

最後に、論理で感覚は作れないみたいな話をしたが、人とのふれあいは至ってセンセーショナルである。例えば好きな女の子に「頑張ってね」などと言われたら絶対に頑張れてしまう。昨日の話から引用すると、貴方も世界の構成員なのだ。そして世界はやる気をなくさせることも作れる環境を整えることも出来る。もしやる気がでなくて困っている人がいたら貴方の行動一つで変えられる事もあるということだ。

 

 

つまり世界はもっと俺に優しくしろという話!!!

じゃあな!!!