「出来る」と「する」の間に
「出来る事」と「する事」の間にはどれほどの差があるでしょうか。
自分の能力として可能であることと、それを実行することにはそれほどの距離があるでしょうか。
急な話の導入について行けない?
いや、ついて来い。
昨日は何かが出来ることに無価値な事なんて一つもないという話をしました。
今日はそれに行動が付随するかという話。
すなわち出来ることをしないとか出来ないことをするっていう事への価値づけです。
うちの弟みたいなガキがですね、見栄を張って出来ないことを「出来る」などとぬかしよる時があるんですわ。
それをやってみてよなどと言ってみると「出来るけどやんない」などとほざきおる。
まあうちの弟くらいの年代であれば可愛いウザさで済むんですが流石に同年代にこういうのがいるとちょっときつい。
でも私の主観ながら結構世間にいると思うんだ、こういう人。
ちょっと私も経験あるのでな。
流石にこの年で人に恰好つけるためにそんな見栄を張ったりしている人はなかなか見かけないが、以前の経験から自分が出来ると思い込んでることがあったりする。
そしてそれが出来ないのか自分がしようとしてないだけなのかが分からなくなったりする。
そういう感じの人なら多分いると思うんだ。
人の心は覗けないので知らんけど。
ここで初めの『「出来る」と「する」の間にどれほど距離があるか』という問いに私なりの答えをぶつけておきます。
恐らくそこに距離は無いと思います。
すなわち「しない」と「出来ない」は同義。
例を挙げるとするなら、道端にポイ捨てされたごみがあるとしましょう。
それをゴミ箱まで持って行って捨てる事が出来るかと問われればほとんどの人は物理的には可能である。
しかし、実際そのような状況にあった時にそうしている人はごく少ない。
その時、ゴミ箱に捨てない人たちは物理的には出来るがしない状態にありつつ、心理的に出来ない状態にあると思うのです。
その原因は人による。
ただ、多分「今までしてこなかった」ということは高いハードルとなってその心の前に裸るのだ。
そのハードルは物理的には跳べるはずなのだが、その前に来て跳ばない人もいる。
それは跳べないのと同じことではないのか。
こう書くとどうも出来ないことを悪く言っているように思えるかもしれないが、出来ないことは決して悪い事ではない。
出来ないことを責めるのは生まれて間もない赤ん坊に立たせるのを強制するがごとく、無意味かつ危険な事である。
そうでなく、それを出来るのにやらないのではなく、出来ないからやれないのだと考えることは心的な前進だと思うのだ。
それ故にこんなことを書いている。
出来ない原因は何でもいい。それは例によって異なるから。
それが怠惰であろうが羞恥であろうが他虐だろうが何だろうが、それはしないのではなく出来ないことなのである。
出来ることをしないのは至って主観的であるが、それがはなから出来ないということには客観的な要素が含まれており、それを見ることで改善の手を施せると思うのだ。
なんかの漫画だったか小説だったかで「出来ないなんてことはない!そこにはするかしないかの選択があるだけだ!」みたいなセリフがありまして、まあ読んでた当時はかっこいいなどと思っていたと思うんですが、今考えるとかなりきついセリフだなあと。
こんなこと言われたら泣いちゃうね。
奮い立たせるには良いように見えて全てを自分のせいに置き換えて処理しろと投げてきている。
かなり辛いことです。
出典は確かSAOの6巻ですね。懐かしい。
作品自体は好きですよ。
話が重複しますが、自分のしていないことを出来ないことだって思うのも悪い事ではないと思うんですよ。
そこから出来るようにすればいいだけなので。
多分そこには大きな差異がある。
けど距離があるわけではない。
同じ場所にあるものをどの角度から見るかというただそれだけの話である。
それをいつか出来るからするに変えられたらそれでオールオッケー。
全てをそうしたい欲求は多少存在するが、どうしてもそれは無理なのでまず身近なことから。
ブログを毎日書けるので書く、幸せな事ではありませんか。
していない人には絶対にできないので。
別に天秤にかけるものじゃあないのですよ。
以上。