赤みのかかった月
最近部活のことで少し動き出しました。
しかし、なんでも動き出してしまうと終わりが来るらしいです。
そりゃそうですね。始まりがあれば終わりがあるのは世の常なので。
思えば今までもいくつもの終わりと始まりを経験して生きてきました。
学校も二つ卒業したし、もう17年生きてしまったし、昨日も始まってから終わりました。この一瞬さえもそう。
そうしているうちにいつからか終わりを恐れるあまり、始まることを怖がっている自分がいます。
面白い本や、漫画やアニメを楽しむときによくその傾向が現れる。
見たいのに見たくないというそれが見始める前、もしくは見始めたすぐあとに起こってしまうのです。
先日もアニメの1話を見た瞬間後悔したものがありまして、あ、これ絶対面白いやつやんと思った瞬間に心の中に早く次が見たいという念と後悔の念が混在するというそういうことがありましたね。
そのアニメは本当に面白かったけど、あいにくラストが微妙だったのでそこまで終わった喪失感がありませんでしたが。
考えればこの「終わりが怖いが故に始まりを恨むという性質」はガキの頃から存在していて、小さい頃ってよく母親や周りの人が死んでしまうのを怖がる時期があるじゃないですか。あれだった時も、死が怖いのはそれが産み出されたせいだと思っていた記憶があります。もしくは私を産み出した両親が悪いって思ってましたね。
生があれば必ず死がある、という自然の節理が存在しなくてはならないことは十分理解したうえで、まだ駄々をこねたい気分は今の私にも存在しています。
しかし、そんな恐ろしい「始まりがあれば終わりがある」という世の常にNOを突きつける存在があるのではないか?
例えばこの世界。いつか終わりは来るのか???
地球が例え爆破しても、宇宙が存在してる限りそこに世界はあり、宇宙に終わりが来るかはちょっとよくわからない。(教えて詳しい人!)
例え宇宙がなくなったとしても何を世界とするかによってはずっと存在しうる。
もしかしたら終わりはないかもしれないな。
と自分で言っておきながら、残念ながらすべてに終わりが来るのだと言い切ってしまいます。世界も永遠を誓った愛も友情も全て終わりが来ます。
世界が終わるとき、それが何時かというと、実はそれは、私が死んだときなのです。
おい、怪訝な顔をするな。は?っていうな。
私の認識している世界というのは私が認識しているから成り立っている。
そこに私がいなくなればその世界は存在しえない。
そして、それは貴方が死んでも同じだ。
貴方が死ねば貴方の認識する世界は終わる。
他の人からしてみれば世界は変わりなく1日を積み上げていくだろうけど。
あくまで主観的な話である。
自分が死ぬとき、自分の全ては終わります。
自分の残した何かが後世に継がれるとして、それは貴方の世界では起こりえない。
貴方の世界で始まりの地点からずっと現在へ引いてきた線は貴方の死によって全てぶつ切りに終わります。
必ず終わります。
これを喜ばしいと捉えるか悲しいととらえるかは人それぞれでありますが。
私は割と喜ばしく捉えている節がありますね。
止まない雨はないさ的な捉え方をしています。
うわー生きてる分際で生死感について語ってしまった~
今回の話、今までと比べて中々納得ができないと思います。
だって別に貴方が死んだって客観的に見れば地球も宇宙もまだ存在するんですもん。
うん。
ですよね。
でもね、言いましたでしょ。「世界が終わるときは私が死んだときだ」って。
実はこれは私の主観的世界の話ではないのです。
私が死ねば、貴方も、地球も、宇宙も、全て終わります。
客観的世界は終わりを迎えるのです。
その話はまた明日しましょう。