脳内宇宙の開示

日頃考えていることを書きます。

世界創造への意欲

 

最近バンド単位ではありますがようやく作曲に手を付け始めました。

あらゆる発表に使う関係でギターと歌だけで短い曲を作った事は何度かあったんですが、複数の楽器を使って作るのも、何なら2番を作るのも初めてです。とても刺激的。

こう作る側に回ってみると他人の音楽に関してもだんだん理解が深まってきて、今までなんとなく聞いてきた曲も改めて聞くとその発想のすごさに気づかされたりします。

気づくようになるのがすげー遅かったなと反省もしています。

まるで理解が深まることで段々ピントがあってくるような感覚。ピントが合ってなきゃ魅力もぼんやりとしか見えなかった。ここからもっと精度をあげて見ていきたい。

 

さて、この演奏から作曲への転換は価値観の変化を大いに生じるものであるというのは今言ったとおりでありますが、それって何に対しても言えるんじゃないかと。

絵画であっても陶芸であっても演劇であっても盆栽であっても、制作に回ってみると多分ただ外から見るのとは見方が変わるんだと思います。

盆栽なんて正直今の僕ではどれがいいとかそんなの分からないけど、実際にやる側になって見たら多分行き詰るところもいっぱいあって、それをどう乗り越えてるとか活かせてるとかそういう見方をしだすとだんだんわかってくるのではないかと。いや、知らないですけどね。本当に現状ではさっぱりわからないんで。

まあただ一つ言えることは物を作る人は当然全員制作者側だということ。

製作者が考えて作ってるものなんだからその考えに近づくには制作者になるのが一番近い、と思っている。逆に外から見てるだけで全てが分かってしまうようなコンテンツには魅力が無いんじゃないかな。

 

 

ものの理解には制作することが一番近いもしくは必須となれば制作者側に回ってみたくなる。

絵画も陶芸も演劇も盆栽も全て一回作る側に回ってみたい。

しかし、この「作る」というワード、とても抽象的なものでありまして、例えばサッカーをやっているプレイヤーはサッカーを「作っている」と言い換えることが出来ない事もない。というか先ほどからの話の流れを汲むのであれば作っているというべきだ。スポーツも理解するには一番プレイするのが早いのだから。

そう言ってしまえば後は無限に広がっている。この世界にいる各個人が世界を作っている構成員だ。それぞれが違う世帯の違う役割を担っている。元々特別なオンリーワン。

 

時々、どうしてもこの世界に無限に広がっている制作者の扉を片っ端から開けてみたくなる時がある。

ピンポンダッシュをしながら世界中のすべてを駆けてみたくなる時がある。

しかし、そもそも生まれた時点で開けることが許されない扉もある。

この世は全てを理解させてはくれない。

また、一つ一つ全てを開けていくことは、一つ一つに掛けていく時間もお金も心も中途半端になるといことである。理解は出来るかもしれないが効率がとことん悪く現実的ではない。いろんな人から嫌な顔もされると思う。

 

 

ブログを書くという経験も「ブログを書く側」に回ったということであって色々私の頭の中を改造してくれているかもしれない。こうなるともう少し手を届きそうなところまで手を伸ばして、物語を書いてみたりしたいものだな。

結局そうやって手の届く範囲にある扉を開けて、自分の世界を広げていくしかないんだろう。大人になったら広げることも難しいだろうから今のうちに出来るところまで広げたい。

あるいは制作者に話を聞くというのも実際に作るのには劣るにしても大いに効果がありそうではあるな。全員が世界の構成員理論でいくと、この世のすべての会話はそれになるのだが。

 

話が変わるが、先日父親と進路の話を夜通しした日があった。「行きたい大学は無いのか」「ない」 「じゃあ学部は」「ない」 「将来なりたい職業は」「ない」、といった様子ではあったが。

だが考え方を変えると、自分は本当は何にもなりたくないのではなく、全てになりたいのかもしれないと思った。

その膨大な扉の前に呆然とし、立ち尽くしているだけなのかもしれないと。

であれば私は何にでもなることができる。扉を開ける意思さえあれば。

希望的観測ではあるがそう考えたほうが全てが面白い。

 

 

 

 

 

あれこれと考えることは思想の制作である。そしてその制作は理解を促進してくれている。その理解が世界に関してなのか自分に関してなのか、それはわからないが。

そして、このように文章に書き出すことで、書かれた思想が誰かの脳内に入っている。

それがもしかしたら何かしらの理解を促す存在となっているかもしれない。

その結果として、どうか貴方が新たな思想の制作者となりますように。