脳内宇宙の開示

日頃考えていることを書きます。

たった一握り

 

逸材は世界のほんの一握りであるとかいう言い方をよくする。

その言い方を聞いた時、私の頭の中には地球という箱に入れられた私とその他70億人の人間が映し出される。

そのひしめき合う我々の上から大きな手が振ってきて、くじを引くように人間を無作為に掴もうとするのだ。

その手をめがけて我々は一斉に走り、なんとかその手の内に入ってやろうと懸命にジャンプしある者は転び、ある者は零れ落ち、そして掴まれた人間を連れて大きな手はどこかへ行ってしまう。

その連れていかれた人間こそまさに逸材であり、成功者となる。

 

私もどうにかその一握りに入ろうと走る訳である。

今も走っているというべきか。

しかしその手のふもとで跳ぶことをためらってしまう。

その原因は転んだ時の痛みへの恐怖心であり、希薄な自尊心であり、勘違いした優しさに過ぎない。

あるいは単に見栄を張って一生懸命跳んでる自分が恥ずかしいのだ。

その姿を他人に見られるとかそういったこととは無関係に、ただ、その跳んでいる自分を私が認識するのが恥ずかしいのである。

そうしているうちにまた手はどこかへ行ってしまう。

悲しいが、仕方がないのだ。

跳ぶ努力をしない自分を手が勝手に選んでくれるわけがないのだからしょうがないのである。

 

しょうがないと言っても、実際立っているだけで手に掴んでもらえる人間は存在している。

そういう人間はよほどのラッキーボーイかあるいは、ただ手の下まで誰よりも先に走ったというだけかという話ではあるのだが。

しかし、それとは別として、手に掴まれるというのは運に左右されるところは大きいのだ。

適当に跳んでみたら偶然入れちゃったというケースもある。

ただ、それはごくわずかな確立である。

結局は跳べる人間にならなくてはならない。

私はいまだそうなれていない。

 

 

そうしているうちに、若干の不安が芽生えてきた。

自分は跳ぶ努力をしないのではなく、出来ないように思えてきてしまう。

跳ぼうとしたところでその筋力が圧倒的に足りないことに気付いてしまう。

そう思ったと同時に、そのほんの一握りという言葉に違和感が生じる。

ほんの一握りといったところで、手の大きさは決められていないのだ。

その手は世界の半分を掻っ攫えるような巨大な手であるような錯覚を起こす。

それに取り残されたような気がしてしまう。

そんな大きな手にさえ取りこぼされてしまってはもう新たな手など滅多に来てはくれない。

ここでようやく危機感を覚えた。

跳ぶ準備をしなければと。

実際にはそれは錯覚であるのだが、錯覚でもなんでも原動力になるのなら使わないわけにはいかない。

 

次こそは飛び込んでやろうと思います。

それで掴まれなくてもまた次に飛び込む反省にしたい。

いつか私を掴み損ねた手を後悔させてやるのだ。

地に足をつけ下を向いたままだった餓鬼を無視して他のやつを手にいっぱい抱えて帰った野郎の目にもの見せてやるわ。

なんなら私を握る手を選ぶくらいの気持ちでいたいですね。

一番握られて心地のよさそうな手を選べるように、明日も一人跳ぶ練習を続けるのである。

誰よりも高く飛べるように。