静寂とカルテット
世界には静寂が足りない。
今日静寂の中でそれを感じました。
世界とはあくまで私の住む世界という話ですが。
貴方の世界に静寂は足りていますか?
そんなん自分の家で留守の時に黙ってりゃ静寂だわ、となる人はその点では恵まれている。
私の部屋では寝るときだって車が通る音や兄貴が隣の部屋で通話している声が聞こえたりして静寂とは言えない。
となるとなかなか静寂って身近じゃないですよね。
しかし、毎日うるさいなーと思って生きているわけではない。
それはうるさい環境に慣れているから。
今だって窓の外からは車が通る音が聞こえるがなかなか意識下に置くことは無い。
この慣れるというのはその環境下に何年間も身をおいているから、という慣れではなくて、暗いのに目が慣れてくるような一時的なものでありますけどね。
何故静寂の話をしているかというと、今日静寂のある場所に行ってきたんですね。
その場所とは…
☆東金☆
そう。東金です。
ローマ字で書くとTOGANE。
まさに千葉の聖地。
我々のメッカ。
県民のヴァルハラ。
東金駅の周りの坂道をやたら歩き回りその後大網まで2駅歩くというとても有意義な時間を過ごさせていただいた。
いやー良かったね。
ここで静寂の話に戻る。
この東金のちょっと駅から離れたところを歩いているともう車通りも全然なく人も全然通らずまさに静寂があったと、そういう話であります。
静寂と言っても全くの無ではありません。
まず、歩いている私の足音がリズムを刻んでいます。
しかも踏んだところに中途半端に砂があったりするといい音を奏でたりするのですね。
次に私が呼吸している音もずっとそこにある。
この足音と呼吸音というのは同じペースで鳴るいわばリズム隊というわけです。
そしてそこに風が吹き、良い音を耳元で鳴らしていく。
これらが基本となって私の聴覚に引っ付いている。
そこに不規則な音が入り込む。
誰かが遠くで家の窓を開けた音。
犬の鳴き声。
ランニングをしている人の足音。
すれ違う人の衣服がこすれる音。
木々が揺れる音。
全てはいっぺんには来ない。
一つ一つがそれぞれのタイミングでメロディを奏でる。
そして、それと基本の音だけになった私の頭の中で響き、こだまする。
鳴り終わった後も私の身体の中に残した残響が私を楽しませる。
この自然のカルテットは静寂の中でしか聞くことはできない。
大きな道路に差し掛かると残念に思う。
そこはあまりにうるさいから。
もう一度足音から聞きなおそうとしてもかき消されてしまう。
あまり情報量が多すぎてはきっと基本の音さえも見失ってしまうのだ。
そうして音への興味は失われる。
静寂の中ではどれ一つとっても美しいものであったものたちが価値を失ってしまう。
さて、もう一度問いましょう。
貴方の世界に静寂は足りていますか?
身近な音を美しいと感じられるでしょうか。
もし、無理だと思ったら東金に行きましょう。
きっと貴方が欲している静寂があります。
私も春になって桜が咲いたらもう一度行きたいと思っている。
帰りの電車でイヤホンをしたのですが果たして音楽を聞いていたのか音楽で耳をふさいだのか分からなくなりましたね。
周りの人が話す音、アナウンス、電車が動く音、他の人の音漏れ。
いつもは特に気にならないそれらが急に気になりだしてしまったもので。
まあそれも数駅通過してしまえば普通のように思えてしまうのですが。
最後に、東金は本当にいい場所でした。
将来住みたい地域1位は鎌倉で不動なのですが、その次に来るくらいには住みたいと思ったな。
そっちに住んでる人からしてみれば大げさなと思うかもしれませんが私は好きです。
そんなに高い建物が無くて見晴らしが良いですし。
まさに、塔がねえと言ったところでしょうか。
東金だけにね。
お後がよろしいようで。
誰かから怒られそうですねハハハハハ