青春の跡地を覗いて
去年の10月にパソコンを買い替えてからこのブログの存在を忘却の彼方に飛ばし、10か月が経とうとしていました。
久しぶりに買い替える前のパソコンにエネルギーを吹き込み開いてみるといろいろと懐かしい写真やら動画の中にこのブログのブックマークを見つけ、「あ~なんか久しぶりにテキトーに文章書きてぇな!」となって書いている次第。書きてぇな!となるのは良いが読む人がもういないと思うんですけど……(名推理)
そもそも一番書いてた時も誰かに読んでほしくて書いていなかった気もするな。そうだっけ?わかんない!もう2年以上も前の事ですからね。。。2年…?恐ろしい。
ただ、2年の時が経ちまして、段々心が正常に戻っている感じがあります。”正常”というのがどういうのかはわからないんですけど高校の頃の明らか異常だった感じじゃなくなったというか、あの頃の何に対しても目くじらを立てていた感じがなくなっていく感じ。今思うと所謂思春期のあの頃、自分への自身の無さが祟って、無理に張る虚勢のような取り繕った無根拠な自信は意味を成さず、周りを落とすことでしか自分を保てなかったんでしょうね。あの頃の僕はそんなことを認めようとはしなかったでしょうけど。今は人並みですが自信もついて、あらゆるものに「僕はそうは思わないけどそれはそれでありじゃない?」と言えるようになってきた感じがあります。
あとは、段々とあの頃許せなかったことや人には言えなかったことが過去のことに変わって、笑い話にできるようになってきました。
でも、未だに許せないこともいっぱいあって、人と群れることには抵抗はあったりなんだりと影響は強く残り、常識とは18までの偏見のコレクションというのはガチなんだなと思う次第であります。しばらくはこのまま生きていくんだろうなと。
大学に話せる人がいないので履修登録とかミスりまくっててこの後地獄見る予定があるんですけど毎日愛想を振りまくのとどっちの方が辛いかな~?という感じ。
あと、これはあまり大きな声では言いたくないんですけど、恋愛観もなんとなく正常に寄ってきてる感じがあって、そもそも誰かに依存するのが得意ではないので相手がいないと生きていけない!とならないように無意識的に精神が自営してる部分はあるのですが、あ~~~会いたくて会いたくて震えるってことね~~~となったりする(それはしない)
書くのに飽きてもう締めようとしています。たまに書くのは悪くないかもしれない。どうせ誰も見てないし!(見たな????)
現役作家の方にタイピングの速度を褒められてブログを毎日書いてた経験はこんなところで生きるんだなと思ったり、今の出来事や言葉が過去の僕を認めてくれてひん曲がった18の偏見が未来から矯正されていくことで救われたりすることがある。多分相手はただ何の感慨もなく言ったであろう褒め言葉一つにずっと縋り続けて、何かあるたびに思い出すことがある。過去に汚点がないことも、過去に自分で折り合いをつけることも、誰かから沢山いっぱい褒めてもらうことも多分美徳なんだと思う。でも、今はまだただの辛い過去でも、少ない会話でも僕はなんだかんだ幸せでいます。両親には未だ心配をかけ続けているけど、僕の中では色々折り合いがついています。すべての過去に、ありがとうございました。
18の悩み
自分の優しさが恨めしく感じるときがある。周りの人間が楽しそうに出来ていないように見えるときそれをどうにかしたいと悩んでしまう。そうしているうちになんとなく他人の不幸に引っ張られるような気持ちになってしまって自分を責めてしまう。
もっと自分勝手であればいいと思う。しかしそうなれないのは真に自分が優しいということであって、それは一般的に誇らしい事であると思いながらも、どうも悲しい気持ちになる。
誰しも、人生の最終目標は幸せになることである。その中で、自分の幸福を追及できないというのがどうも悔しい。結局は周りの人間を楽しくすることがすなわち自分の幸せに繋がるわけであるが、虚勢のようなエゴイズムと真の優しさの狭間で押しつぶされそうになる。
そもそも自分以外の感情というのには確証がない。
嘘を吐こうと思えばいくらでも吐くことはできる。
だから人の感情に自分の幸福をゆだねるというのは相当に不確定なものであり、そんなものをいつまでも追ってきてしまったから他人の感情に自信がない。誰しもすぐに優しい嘘を吐く。逆に優しい嘘を吐く人としか関わることができない。
そんな話を人にするわけにはいかない。何も感じていない人間に対してあの人はこう思っているはずだと決めつけた内容を話したところで、ただ巻き込んでしまうだけのように思える。決して配慮が欲しいわけではない。みんなで配慮して摺り寄せていくのは絶対に違う。だから一人で悩む。今日も誰にも見られないところで文章を書いて気持ちを晴らそうとしている。文脈なんて必要ない。メモで良い。体裁が整っていることもまた恨めしい。
18の感性で生きている今の私は今の私が嫌だ。
高校生という身分がコンプレックスだ。
早く大人になりたいと思う。
その考えが何よりも子供らしい、高校生らしいというのもまた皮肉なもので困る。なんとなくだが、大人になっても対して変わらないような気もする。今周りの空気を受け入れられないでいつか受け入れられる時が来るのかもわからない。
青春をどこかで取りこぼしてしまい、いつ消化すればいいかわからなくなった。
このまま大人になってしまったらろくなものにならない気もしている。大人になりたいに収集が吐くのかがわからない。反抗期は来なかった。青春も取りこぼした。高校は謳歌できず傍観者になった。小さいころの大人になりたくないと思っていたころの方がよっぽど健全な心境であったのではないかと思う。今のままではいつか死んでしまう。自ら命を絶ってしまう。
再度いうが、高校生であることがコンプレックスである。
しかし、高校生で無くなった時にそれが晴れるのかいまいち自信がない。
高校を卒業してもなおそこにずっともやっとしたものが残るのであれば何に自信が無いと言えば良いだろうか。
私だ。私に自信がない。
自分を否定して生きていくしかなくなる。
期限は迫ってきている。ただどうもできない。社会のしがらみが憎い。
あと4か月せずに終わる高校生活から離れたら自信を持てるだろうか。
非常に恐れている。
大学、会社に入った後も平日家から出られないような生活を送らないだろうか。
何か外に原因を求めているだけで、実際には全て私の怠惰が原因なのでは無いだろうか。
ずっと悩んでいる。
これも全て外のせいにしきれない私の優しさだろうか。それともはなから怠惰なのだろうか。それももうわからない。
そんな18の悩みをここに書き残す。いつか笑って見返してはくれないか。
一周忌
お久しぶりです。
この一周忌というタイトル、誰の一周忌なのかと気になる人もいるでしょうか。
私です。
いわゆるアイデンティティの崩壊が起こったと言えば伝わるでしょう。
それから早いもので1年が経ったというわけです。
では去年の10月2日に何があったかという話から入りましょう。
去年の今日というのは私が久々に、いや、もしかしたら初めて父親に怒られた日なんですね。
初めて父親に怒られてアイデンティティが崩壊などとはなんとも可愛い話じゃないかと思うやもしれませんが大事なのは中身であります。
私の父親というのは将来の夢を叶えた人間でありまして、なりたい仕事に就くための大学に入り今もなおやりたい仕事をしているわけで、中学の時学校の課題で親に仕事についての話の聞いてくるという事をしたときもしたい仕事に就いてくれと言われたのを今でも覚えています。
ただ、その父親の願いに対し、私にはやりたい事が無かったわけです。
それは将来の話だけではなく週末の空いている時間に何をしたいかという目先の話に対しても何も答えられませんでした。
それに対し父親は高校で何をしているのかと怒ったわけです。
決して勉強を熱心にやっていたわけでもありませんでしたしね。
「お前は将来自殺する気がする」と言われて心を見透かされた気分になったのを覚えています。
自殺願望というものは全く無かったのですが、とりあえずぼんやりと生きて生きれなくなったら死ぬくらいの覚悟でいた気がしたのです。
自殺願望がないように生存願望も全く無かったことに気づいた瞬間かと思います。
明くる10月3日、去年はこの日が体育祭でした。
そしてやりたいことに対して酷く鈍感だった私はなんとなく学校から家まで歩いて帰ってみたいと思い、それを実行に移すことにしました。
6時間かけての下校。
普段であれば絶対にしない事ではありますが、その日は欲望に忠実であろうと思ったのです。
久しぶりにしたいことをしたような気分になって、さらに自転車で遠くに行くという次にやりたいことまでできたので、気持ちが晴れた気分でいました。
自分はちゃんとやりたいことを見失っていないと。
きっとやりたい事を見つけていけると。
そして5度ほど自転車で登下校をしたうえで11月の末に小田原まで自転車で行きました。
やりたいことに対し、ストレートにそれをやる事の楽しさを味わい、父親が自分に自分にかけた言葉が自分の中で大きな意味を成した気がしました。
しかし、やりたい事を見つめることは同時にやりたくないこととの線引きがされることでもありました。
それまで感じなかった学校への億劫さが膨らんでいきました。
1年前までの学校というのは楽しくはないが行かなくてはいけないのでなんの感情も無しに行くところだったように思えます。
普通に学校に通うならそれで問題なかったように思えます。
平日の朝から学校があり、夕方には終わり、土日は休み。
この流れにそのまま流され、それ以上の期待もそれ以上の負担も無かったのです。
ところが、したいことをしようと思ったらこの流れは邪魔になってきたのです。
後ろに行くにも横に行くにもこの流れが邪魔で、流れに従うことは自分にとってはやりたいことに出来なかった。
そして、自転車での旅行を終え、12月の部活のライブを終えた途端、したいことが一端なくなりました。
あの時、部活の方がとても忙しくなり、1週間毎日11時ごろに家につきそれから運営の方の仕事みたいな生活だったのもあり、ライブが終わった後力が抜け、音楽に対しても何もなくなっていました。
ただ、やりたいことはないのに学校への憂鬱さというのはずっと引きずっていたのです。
何も考えずに行けていた学校が行きたくないに変わった決定的な瞬間がここにありました。
それから父親に日記を勧められたのと友人が毎日文章を書き始めたのに乗じてブログを初め、毎日書くようになりました。
このころから学校に行かない日が増えます。
かといって学校を休むとさらに鬱屈として、その心地が嫌で睡眠を過剰に取り、起きたらそれをぶつけるようにブログを書きました。
4月18日にずっと誰かと行こうと思っていた寄席に一人で行ったときから一人でいることが好きになって、気が付けば散歩に出たり公園に行ったりするようになりました。
母親はそれを心配しましたが、父親はそれを肯定してくれて、これで良いんだと思うようになってから徐々に気持ちは回復しています。
現在進行形で回復しているような気がします。
一人でいるせいで病んでるとか何とか言われますが本人は元気なつもりです。
仰々しく書いた割にそんなに大した事起こってないと思う人がいるかもしれません。
私もそう思います。
こうやって文章にしてみると、身を置いている環境には何もないのです。
いじめられてるわけでもない。
家に居場所がないわけでもない。
病気にかかったわけでもない。
むしろ、ちゃんと自分の席のある学校があって、ちゃんと心配してくれる親がいて、健康な体を持っている。こんな幸せな環境はない。
しかし心は幸せになれないのである。
となると原因は私の方にあるとしか言えない。
私の心が幸せを拒んでいるのであると。
これは怒られても仕方がないほどの贅沢な話であるが、例えば学校でいじめられているのであれば、その学校という環境を離れれば自分はやっていけるという根拠のない自信を持つことが出来るかもしれない。
しかし、こんな幸せな環境にいて幸せになれないとしたら、私は何処で幸せになれるのかがわからない。
環境に問題がないのなら心を離さなくてはいけない。
そんなのなかなか出来ないじゃないか。
それこそ死ぬしかない。
進路を決められない理由はここにあった。
何処に行っても不幸せな気がした。
どうすればいいかわからないというよりどうしても無駄な気がした。
最近、本当にここ2週間くらいの最近の話だが、新しいコミュニティーを見つけた。
いままでとは全く違う環境に入り込み、今まで話したことのない人と話し、今までしてこなかった事をしている。
あくまで主観ではあるが、上手く行っている気がする。
現に楽しい。
学校も週に一回以上必ずやすんでいた1学期と比べて欠席の数は大きく減った。
何処に行っても幸せになれないと思っていた根拠のない自信の無さが解消されている気もする。
心が健康になって来た今考えると、2月ごろ自分はうつ病なんじゃないかと思いネットの簡易診断を行い良い結果が出ても悪い結果が出ても落ち込み、精神科に行くか本気で悩んでいた頃の自分は本当に何か抱えていたんじゃないかと思う。
環境とか心とか関係なしに幸福度みたいなものが足りてなかったのだと思う。
もし新しく属した環境で幸福度を高めることが出来るなら、私は生き返ることが出来るかもしれない。
色々ありながら1年たったがもうすぐまた生まれなおる事が出来るかもしれない。
未だに不安と新たに期待を背負いつつ、明日1年ぶりに歩いて帰ろうか真剣に悩んでいる。
今咲かんとするつぼみ
夏になれば咲く花のつぼみをじっと見つめている。
外から見ていればそれは夏になれば自然に咲く花のように思えるのだが一つのつぼみを見つめているとそのつぼみが本当に開くのか不安に思えてきてしまう。
実際、その隣にあったつぼみは花開くことなく枯れてしまった。
そうなるのが怖くてじっと見つめてたまに水を与えている。
もしもこの花が水を与えれば与えるほど早く育つのであれば話は早く、頑張って水を沢山運んでくれば良いだけの事なのだがそれではいけない。
自ら咲いてくれるのを待つしかないのだ。
花自身の咲きたい意志も伝わってくる。
私もつぼみの中が見たくてたまらない。
恐らく咲いたら涙を流してしまうだろうと思う。
きっと綺麗だろうから。
咲かなくても鳴いてしまうと思う。
力をふり絞っても開かないつぼみはとても残酷だろうから。
夏になれば勝手に咲くわけではない。
咲くことができるのは咲こうと思った花だけである。
それを絶対に忘れてはいけない。
今日飛ぼうとして地面に落ちたセミを決して忘れてはいけない。
飛べる時に飛ばずしていつ飛べるのだ。
この最後の体力を咲くこと、飛ぶことに全て使う。
その意気でいたいと思った。
過度に笑わない福
私は、人と話すときは基本的になんでも笑ってしまう人間である。
いわゆるゲラという奴であり、それに加えて女性で言えば箸が転んでも笑う年ごろなんて言われるような時期を過ごしているわけで、まあとにかく笑ってしまうのである。
ところが、いつからか何故自分が笑っているのか分からなくなっていた。
気に障るような事を言われ、内心少々腹をたてていても最初に出るのは笑いであったりすることもしばしばある。
自分を否定されたとき、それを笑って受け流すことが癖になっていて、その根底には否定されたことに関して反論する自信があると思われたくないという消息的な考えがある。
すなわち受け流すと言いながらも自分の中では受け入れているのだった。
しかし、それは決して愛想笑いではなく、いや、愛想笑いではあるのであろうが、自分の意志で無理に笑顔を作っているつもりは無く、半ば反射的に出るものなのであった。
むしろ愛想笑いである自覚があり意図して心の傷を隠すように笑っていたのであれば納得がいったのであるがそうではない自分の笑い方に心地悪さを感じる事も多くある。
もしかしたらこの先何を言われても笑うことしか出来なくなるのではないかと不安に思う。
私と近しい人間であれば、私が気分を害した際に笑うことなくその感情をそのまま誰かにぶつける様を見たこともあろうが、この先の未来、自分より立場が上の人間の元で仕事をする際もあるだろうが、その時に無意識に媚びへつらう自分を想像すると嫌気がするのであった。
そんな私が今日、笑えない場面に遭遇した。
決してそれは笑えないほど気に障ったというわけではなく、むしろそこまで否定的でもないような少しからかいを含んだだけのやわらかい言葉であったが、表情は一切変わらず、声も一言も発さない自分の硬直に自分で驚いた。
多分、そのからかいの言葉を受け入れたくなかったんだと思う。
受け入れて笑ってしまえばそれは笑われるものになってしまうから。
思えば、反論する自信を持っていることを恥ずかしく思うのは自分に自信がないからである。
自己愛がないからである。
普段は存在しないそれらが今日の笑わなかった場面では確かに存在していたのだ。
嬉しく思った。
自分で自分を愛せたように思えた。
なんとなく未来への不安が薄まった。
多分意図しない愛想笑いも真に笑いたくないところでは出ないのだと。
奇を衒うアイデンティティに自信が持てたのは久しく、同じ感覚を持っていた頃を思い出してこの状態が続けば自分はもっと強くなれると確信したのであった。
ダサいムーブは-5センチ
1日48時間。睡眠は12時間。今日も日が沈んで昇った。
身体の倦怠感はいつもより薄く、しかし頭は重い。
頭の中が情報と感情で溢れている。
一度軽くするには寝るのが一番早いと思うのだが、あいにく今日はもう寝るとまた学校に行けなくなってしまうので却下。
この行き場のない頭の中の有象無象を吐き出すためにブログを開いたといった塩梅である。
一昨日、個人的に好きな教師漫画を買った。
倫理を教える先生が色々なことに悩む高校生にどこか冷たくも優しく手を差し伸べる漫画である。
その中にいつも夜更かしばかりして学校で寝てばかりいる生徒が出てきた。
まさに私の現状である。
否、私は家で寝ていることも多いので私より良いのであるが。
その生徒に対してもその教師は手を差し伸べる。
まあ話の流れとして当然なのだが、その授業中に寝てばかりいること生徒すなわち自分がその「悩める高校生」に含まれてしまうのがどうも突っかかってしまった。
世間の認識がこうなのはわかっている。
自分が一般的に良くない生徒であることも理解している。
しかし寂しく思えてしまった。
教師漫画に登場する悩める生徒というのはヒーロー漫画で言うところの悪役である。
それがいることで話が進むというのはそれには存在感がなくてはならない。
ヒーローに対する悪役は一目で悪だとわかる方が読み手にとって分かりやすい。
そのポジションに今の自分がいるような気がした。
不良生徒を代表する枠に収まていることに気が付いてしまった。
それがどこかに突っかかって、同じ漫画の同じ話を何度も読んでいる。
なんて言ってみたところで結局昨日は学校に行けていないし、今日も徹夜で行くわけだからきっと寝るだろう。
善良な生徒になりたいならもっと頑張らなくてはいけないわけだが、あいにくそうなりたいわけでもない。
結論としては自分の中での尺度をしっかり自分で持たないといけないって事だ。
私は家で寝ているより学校で寝てるほうが成績的にまだマシなので学校で寝ます。
これでいい。
それを再認識したというだけの話である。
結局は自分大好き高校生のガキ丸出しの正当化ってところですか。
こういうのしたくないって言うか、思っててもあんま声に出したくないって言うか、言った途端本当に周りでそういうことしてる高校生と同じになる気がして嫌なんですけど、実際同じなのでしちゃおっかなみたいなね。
こういう考え方も自分の中で変えていきたいところなんですけどなかなか抜けてくれなくて。
世間を自分の中で作ってしまって、自分の中の世間が自分を責めるから何もできなくなるみたいな事が度々あるんですよ。
世間を気にする時は誰であろうと必ずこれなんですけどね。
故に自分なりの尺度はやはり大切であるとそういう話です。
疲れた。
以上。
いつかお金を生む発想
半月近く書きませんでした。
おひさです。
毎日書かない言うてもまあ最低週1くらい書くやろと思ってたらこれです。
まあなんだかんだ忙しかったんでね。
ちょっと余裕があるときにかければいいと思っています。
とはいってもこう時間を空けて表現する能力を失ってしまい、書こうとしても書けないみたいな状況になっても良くないので出来るだけかいていきたいね。
ずっと面白い人間、すなわちイレギュラーになりたがっているという話を以前したのですが最近またその念が強くなってきまして困っています。
嘘です困ってません。楽しんでます。
今のところ特に何が出来るというわけでもないので焦りなどは一切なく、考えたいときに考える事が真の意味で出来ている状況は非常に楽しい。
無料で博打打ってる気分なんですよね。
前も言ったかもしれませんが発想はビジネスになり得るものであると、それを誰が最初に思い付き実行に移せるかというレースをしているのだとあるという話です。
そして、もし自らの思考において周りの人間が思いつかない発想が生まれたとき周りより一つ前に抜けれるとそういう話になってきます。
実行に移すという大きな道の前においてはあくまでひとつ前に抜けれる程度の事ですけどね。
まあそんな事を考えているのでこの思考の先には何か自分に利益があると思い込むことができている。
これが楽しいと感じる所以であります。
実際にビジネスに繋がるかどうかは知りませんよ。
お金を発生させるためには周りの人間が思いつかないうえに社会のニーズと合致している必要がありますから。
その発想ができるかはまた別の話ですが、まあ面白いという観点においてはそれで十分かと思うのです。
ここで話を変えましょう。
先日テレビを見ていた時の事です。
コマーシャルに差し掛かりそれでもなおぼーっと画面を見続けていると「バイトの体験をしてから働くか決めることができる!」みたいな文句のコマーシャルが流れてきました。
はい。
それだけですけども。
不思議じゃありません?
バイトの体験って響き、不思議じゃありません???
私としてはバイトの体験をするくらいなら実際にバイト始めればいいのになと思ってしまいますが、どうなんでしょうかね。
もし本当に合わなかったらちょっとしてすぐに辞めればいいのになと思うのですが。
ブラックバイトとかそういうことへの配慮なんですかね。
私としてはどうも首をかしげてしまいます。
まあバイトをすることが不安な人向けのサービスだとは思うんですが、あまりにも人の弱さにつけこんでいるように感じてしまう。
本屋の店頭に売ってる「Twitterの仕方が1からわかる本!」とかもそうだ。
実際に始めてみればそれだけで済むところにある微かな弱さに安全性のサービスを提供し、それがビジネスとして成り立っている。
そんなことを言ってしまえば教材の類は全てそれになってしまうし線引きは出来なくなってしまう訳であるが、それでも何かが悔しい気分がしてしまう。
先にあげた社会のニーズに合わせた発想の他に、人の弱さにつけこんだ発想というのもお金を生み出すのだ。
いや、ニーズは弱さから生まれることも多いのかもしれない。
それらは違うベクトルであれ、人々がただ望んであるというただそれだけの話なのだ。
お金がからむものの動き方は面白い。
そこには情の類はほとんど存在せず、世間が必要とするものは利益を生んで生き残りそうでないものは赤字と共に消え行くだけだ。
いずれか我々もお金を生む側に関わる時がきっと来る。
その時、もし自分の発想でお金を生み出そうとするなら人々の目の先にあるものか人々の足元を見る必要がある。
どちらにせよそれがニーズとあってさえいればお金を生むことになるでしょう。
いつか発想でこの弱い世界を殴ってみたい。
以上。